第3回しんきん「ありがとうの手紙」キャンペーンの受賞作品のご紹介
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まちのえがお賞
姉へ 大方 紀夫(北海道札幌市)

ありがとうの手紙 お姉さんへ

 先日はありがとうございます。
 今日は、珍しく穏やかな陽が射しています。
 姉さんも、ご存知の部分があるかと思いますが、妻が死んだ後のここ数年、私達家族は困難の連続でした。
 業績不振から会社を閉め失業、経営者ですので失業保険も無く、蓄えを切り崩し、サラ金に手を出し、やっとの事で、雨露を凌ぐ日々を送るうえ、長男も会社を病気で、退職をしてしまい、次男は大学を中退してしまいました。
 不幸自慢ができる程、沢山の出来事がありました。
 それでも、私はめげず資格を三つ取り、なんとか就職にありつけました。
 就職してから最初の給料を貰うまで二ヶ月近くあり、それまでどうやって食いつなぐか、考えあぐね、姉さんに三十万借りにいきました。
 姉さんは一つ返事で特に条件も付けず貸してくれましたね。
 その時は、情が身に沁みました。
 私達兄弟四人は、普段の行き来はあまり無く淡白な関係と言いましょうか、干渉しない分、頼みごとがしずらい雰囲気でしたが、頼のんで良かったと思います。
 十万円は、借りてから三ヶ月後に返しました。
 残りの二十万円は分割で返す事に、自分勝手に決めました。
 今の会社で初めて冬のボーナスが出て、五万円を返しに行った吹雪の昼下がり、姉さんは受けとってくれませんでしたね、そればかりか残りの二十万円は要らないといってくれました。
 いたずらぽく笑いながら、「条件があるわ、旦那には内緒だよ。」
 その言葉を聞いた時、涙がこみ上げてきました。
 顔に当った雪が融けて、頬を滴るのを幸いに誤魔化しましたが、気づきましたか。
 亡くなった妻以外に、私の事を愛し、心配してくれる人が、この世にいないと思っていました。
 孤独感を背負いながらの毎日から、開放されたような気がします。
 ありがとう、せめて花束を毎年の誕生日に贈ります。
 ところで、誕生日を後で教えて下さい。

信金の人へ 門馬 由利恵(福島県南相馬市)

一緒に怒ってくれて有難う

 「絶対に捕まるよ。悪いことして逃げ延びるなんて許されない。」
 自分のことのように怒り、叫んでくれたのは、信金兄ちゃんと呼ばれていた貴方だけでした。山村で細々と雑貨店を営む我が家に泥棒が入ったニュースは、天災も人災も数十年経験したことがない村人にとって、格好のネタでした。
 ・ほほう、よくそんなに貯めこんだものだ ・いい気味だ。バチが当たったんだ
 親切にお見舞いに来て下さる人もいましたが、面白半分で状況を聞きに来る人、耳をふさぎたくなるような悪口を吐いて帰る人、連日のマスコミ取材と警察の取り調べで、私共はほとほと困り果てておりました。
 『武士は食わねど高楊枝』を宗とし、人様への援助は惜しまずに暮らして参りました。
 まさか老境にさしかかった今、見ず知らずの方からまで罵倒されるとは、露ほども予知できませんでした。
 そんな中、いつものように積立金を集めに来て下さった、信用金庫の青年の言葉は、私共老夫婦にどれだけ勇気を与えてくれたことか。色々と防犯の心得を助言してくださる人はいましたが、犯罪被害者となった身に必要だったのは、同感してくれる、一緒に怒ってくれることでした。
 信金兄ちゃんの言葉通り、犯人は捕まりました。けれどお金は戻ってきませんでした。サラ金に借金を返し、残りは遊びで使い切ったとのことでした。日本の法律では弁済してくれるわけでも、一部でも見舞金がもらえるわけでもなく、ただただ悪い夢を見たと諦めるしかないのだそうです。
 積み立てを解約すると伝えた日、信金兄ちゃんは又も同感し、怒ってくれましたね。
 夫が絶望の余り、胃ガンで逝った時、他行は残高数十円の預金通帳を解約するのに、ややこしい手続きやら手数料支払いに頭を抱えました。
 唯一、普段使いで一番利用していたから、一番残高のあった信金さんだけが、ご遺族は大変でしょうからと届けて下さって…どんなにありがたかったか。
 もう信金兄ちゃんのノルマ達成に協力することはできなくなりました。ごめんなさいね。
 でも、貴方のことだから、きっとあちこちで一緒に泣いたり怒ったりしてくれると信じています。無念の夫が生前よく言ってました。「余計なことは言わんでいい。うんうんうなずいて同感して見せてくれるだけでいい。彼みたいなのが増えれば、被害者の傷は癒されるんだが。」

お義母さんへ 吉田 幸子(福島県田村市)

お義母さんへ

 おかげ様で結婚7年目になりました。
 本当のことを言うと結婚当初は、家族(特にお義母さん)に気に入られようとして、心にもないウソをついたり、ごまをすっていい嫁を演じていました。
 とても辛かったです。
 言いたい事を言って、ケンカして、笑えたらどれだけ楽しいだろうと毎日ため息をついていました。
 お義母さんはそんな私の気持ちに気付いていたみたいですね。
 食事の時は、私の作ったものを一口食べて「何これ、うまい!私、負けちゃう。」って言ってましたね。私は、お義母さんの心遣いに気付かず、いい年して嫁と張り合うなんてと思っていました。
 又、私が部屋に戻って大きなオナラをした時、隣の部屋にいたお義母さんは笑っていましたよね。私すごくショックでした。だけど後で、お義母さんもみんなの前でオナラをして自分で笑ってみせましたね。まるで私にそんなのぜんぜん恥ずかしくないよって言ってるみたいでうれしかったです。
 子どものことでお義母さんは、「抱き癖がつく」とか「ずいぶん薄着にさせて、まったく」とか言うので、私は「いまの育児は…こうなんです。」って言い返したりしましたよね。でも後になってから、お義母さんったら「自分の子どもは、4人ともおばあちゃんがお守りをしたんだ。だから私は畑仕事と会社勤めであまり育児が分からないんだよ。」って。もう少し早く言って欲しかったですが、お義母さんなりに心配して世話してくれたのに、ごめんなさい。
 いま考えるとお義母さんとのやり取りで、やっと人前でも素の自分でいれるようになれたと思います。それと、相手の気持ちを察することが少しずつですが出来るようになりました。ありがとうございます。嫁としても人としてもまだまだの私ですが、これからもよろしくお願いしますね。
 今日は、お義母さんの好きなきゅうりをハウスからもいできましたよ!

親父へ 飯田 翔(栃木県佐野市)

親父へ

あの日に親父と飲んだお酒の味は今でも忘れられない。俺は、成人式を迎えたあの日まで、親父に感謝の気持ちを持ったことなんて一度もなかった。親父が話し掛けてくる度に「うざい」と感じてばかりだった。小学生の時だったかな。俺は勉強が苦手だった。そんな俺に親父が、苦手教科のドリルを手作りして教えてくれたのを覚えている。けれど、友達と遊びたかったし、ゲームもしたかった。正直、親父とドリルをやるのが本当に嫌だった。その時から親父が嫌いになった。中学生・高校生の時は部活動に打ち込み、充実した学生生活だった。それなのに、親父は毎日「宿題やったのか」、休日には「飯でも食いに行かないか」と聞いたよな。本当にうざかったから、高校2年頃から会話をしなくなった気がする。とにかく親父から離れたかったから、大学は一人暮らしを選んだ。その頃は全く親父との会話もなかったし、むしろ頭になかったから、気持ちが超ラクだった。そんなこんなで普通に時間が経って、成人式に参加する為、家に戻ろうと考えていた時だったかな。母ちゃんから「父ちゃんが倒れて、救急車で運ばれた」って電話が掛かってきたんだ。続けて「ただの過労で症状は軽いから心配いらない。それより、家を出た日から父ちゃんは毎日私にお前の事を聞くんだよ。大学で単位は取れているのか、お金は足りているのか、ちゃんと飯食っているのかってね。だから、成人式の時は顔を出して気遣ってやってちょうだい」って言われた。電話を切った後「俺の心配なんかしやがって、相変わらずうざいな。そんな心配の前に、てめーの心配しろよな」って心の中で思っていたけれど、なぜか目からは涙がこぼれ落ちていたよ。成人式が終わった後、結局夕食だけを食べに家に寄ったのかな。俺は親父に「体は大丈夫か。俺は何の問題もなく生活しているから、自分の事だけ心配しろよ。色々あったけれど、今まで本当にありがとう」って言ったら、親父は一言だけ「成人おめでとう」と言って俺にお酒を注いでくれたよな。そして、一緒に口に含んだよな。生まれて初めてのお酒だったけれど、本当にうまかった。大学でガンガンお酒を飲む時はたくさんあるけれど、あの時の一杯が今でも俺の中でナンバー1のお酒かな。

 親父、嫌いな時期もあったけれど、許してくれ。今でも俺の事を心配してくれている事を本当に感謝するよ。ありがとう。

 P.S.
 今度、家に帰る時は、とびっきりウマイお酒を買って行くから一緒に朝まで飲もうぜ!!

恩師へ 石原 慶典(埼玉県北葛飾郡)

恩師へ

 家の中で本を整理していたら古びたダンボールを発見しました。その中には小学校の担任の先生やお友達からのお手紙が、ぎっしり入っており、小学校の頃を思い出し懐かしくなりました。小学校入学してまもなく左大腿骨骨嚢腫という病気になりました。小学校四年の時、三度目の手術を行うことになり、先生に今度の手術は腰の骨をとって人工の骨も一緒に太ももに移植するという話をすると、すごく心配して目には涙をためていたのを思い出します。先生は学校で「私を励ます会」を開いていただき、入院中は先生とお友達が書いたお手紙を毎日私の家に届けてくれました。おかげ様で学校の様子がよく分かり、毎日母がお手紙等を病院へ持って来てくれるのが楽しみでした。特に一番嬉しかったことは、カセットテープに先生がピアノを弾きクラスの友達が「それが大事」という歌を合唱し、最後にお友達から励ましの言葉が録音されていた事です。嬉しくて何回も何回も聞きました。痛くてつらい治療でしたが負けないで頑張ってこられたのも、先生とお友達からの励ましがあったからだと思います。退院後、学校へ行くと松葉杖をついている私のために、和式トイレが一つだけ洋式トイレにしてくださいました。とても有り難く感謝しております。そして先生が中心となってクラスのお友達が、毎日交代でお世話してくれたこと、全校朝会の時、みんなの前で「私のクラスに足の手術をして松葉杖をついているお友達がいます。みなさん、ぶつからないよう協力して下さい」と頭を下げてくださいました。その時私は先生のやさしさで涙がこぼれました。後で「先生、僕は大丈夫だから」と言ったような記憶があります。先生は笑顔で「I君がいるからみんなも優しくなれるのよ、だからあまえてもいいのよ」とおっしゃって下さいました。先生のご配慮で沢山のお友達から親切にして頂きました。五年になって少しずつ運動ができるようになりました。そのころから「恩返しをしたい、みんなの役にたつ人間になりたい」という気持ちで一杯になりました。中学校に進学すると直ぐに生徒会の役員に立候補し、選出され、三年間、生徒会の役員として頑張りました。生徒会の活動は学校内だけでなく老人ホームへ慰問し、お年寄りの方から大変喜ばれました。また、生徒会活動が認められ、埼玉県産業教育振興会長から表彰状をいただきました。先生にそのことを報告に行くと、涙をためて「よく頑張ったね」と褒めて下さいました。現在私は信用金庫に勤務しております。先輩や後輩にも恵まれ、渉外係として、お客様の家に訪問しております。お客様から「貴方にまかせてよかった」とおっしゃっていただけると大変嬉しくなります。そして先生から学んだ、やさしさ、おもいやり、そのほか教訓を生かし、お客様に十分な気配りができるように今後も努力していきたいと思います。
 先生いままでありがとう。

ギリシャのおじさんへ 川口 祐史(新潟県南魚沼郡)

拝啓 ギリシャの頑固おやじへ

 いきなり「頑固おやじ」なんて言ってごめんなさい。あなたはギリシャの街角の屋台のご主人で、私は随分昔、通りすがりに立ち寄った客です。最近、なぜかあなたのことをよく思い出すようになり、あなたのやさしさに一言お礼を言いたくてペンを執りました。
 ギリシャに滞在中、私は二度あなたの屋台に行きました。二十歳を少し過ぎた頃の、楽しい一人旅でした。良い香りの方に目をやると、あなたは屋台の奥で筒のように巻き付けて焼いた肉を大きなナイフで削っていて、店先で奥さんと娘さんが大騒ぎで客を歓待していました。私が肉を受け取って屋台を去ろうとすると、彼女らがジェスチャーと意味不明な黄色いギリシャ語でパンを持って行けと勧めてくれました。ヨーロッパではパンは無料で取っていい場合が多く、事情を知らない外国人の私に大騒ぎで知らせてくれたのです。私は小さく切ったパンをいくつか掴んで肉の袋に入れ、お礼を言って宿に帰りました。
 翌日、またあなたの屋台に行きました。今度はあなたが独りで店番をしていて、昨晩と違って黄色い声も歓待ムードもありませんでした。あなたは黙って肉を袋につめ、ぶっきらぼうにポンと私の前に投げました。でも、私は帰りの道すがら肉をつまもうと袋を開けて驚きました。肉の横にパンがしっかり、たっぷり、詰められていたのです。おやじさんは昨晩の私のことを憶えていて、自由にパンを取ってもいいことを認識していない若い外国人に配慮して、黙ってパンを詰め込んでくれていたのです。
 あなたは昨晩の女性達と違い、ニコリともせず、一言も喋らず、私と目さえ合わせませんでした。愛想の悪い「頑固おやじ」そのものでした。でも、あなたの沈黙と無表情の裏にはぎっしりやさしさが、詰まっていたのですね。印象に残るギリシャ最後の日でした。
 あれから二十五年が経過しました。何とか過ごしてきた人生で、「世の中はとんでもない」という思いと「世の中も棄てたもんじゃない」という思いを日替わり定食みたいに食らっています。でも、この頃なぜか長い間忘れていたあなたのことを思い出し、その度に「世の中も棄てたもんじゃない」という気持ちのほうが少し勝って、救われる思いがしています。ギリシャのどこの街角のどの屋台だったかも分からない今となっては、あなたへのお礼の気持ちを、空に向かって叫ぶような思いで、こういう形に認(したた)めるほかありません。「ギリシャの頑固おやじ、聞こえるか。あのときはありがとう。俺はしっかり生きてるぜ!」
 最後になりましたが、この八月、ギリシャで大変な山火事があったことをテレビで知りました。アテネ近郊まで火が迫ったと聞いています。ご家族、ご友人はご無事でしょうか。心からお見舞い申し上げます。
 敬具

路肩から助けてくれた人へ 森 恵子(長野県松本市)

シルエットヒーロー様へ

 こんにちは。シルエットヒーロー様。私を覚えていらっしゃいますか?
 あの凍てつくような冬の夜。ガタンという音と共に私は自分が斜めになったのを感じました。エンジンも切らず慌てて車から降りると、片側の前タイヤが側溝に落ち、車が「ん?」と小首を傾げている愛らしさと悲しさを漂わせながら脱輪しておりました。「あぁ、どうしよう」私はショックで立ち竦んでおりました。そこへ「どうしましたか?」とあなた方が現れました。颯爽(さっそう)とまるで本物のヒーローのように。
 あなた方は困っている私を見て状況をすぐに判断すると声を掛け合い、どこからともなくブロックと板を持ってきてくれました。それから、やってきた後続車に大きく手を振って「今、この道通れないので迂回お願いします。」と頭をさげて下さいました。タイヤの下にブロックを差し込む為、何の躊躇(ちゅうちょ)もなく顔と肩を地面につけ、手を伸ばしブロックを固定して下さいました。私が運転席に座り、緊張しながらもアクセルを静かに踏みます。タイヤが敷いてくれた板に、そしてブロックに乗った時「はい、OK!」の大きな声。あの喜び。あの嬉しさ。そして一体感。あれから十四年たった今でも私の心を熱くさせます。あの時「お名前と連絡先を教えて下さい」と頼んだ私に「俺ら、すぐそこに住んでるよ」と、ニカッと笑い親指を立て、すぐ後ろにある貸家を指しましたね。「あぁ、こんな近くに住んでいるんだ」と私は安心し嬉しくなり、次の日早速お礼に伺いました。ところが。
 あなた方はあの日私の吐き出した白い息のように、確かに存在していたはずなのにフッと消えてしまいましたね。
 あの日、あなた方が帰ってくるんではないかと私、外で待ってみました。でも隣の人から「昨日、引っ越した」と教えてもらいました。車好きの若い夫婦だと聞きました。昨日は一日中引越しをしていて夜、最後の荷物を取りに来たようだ、とも言っていました。隣に住んでいたけど名前も何も知らないと素っ気なく言われました。
 あの暗闇の中、指示を出す彼の声。後続車に頭を下げて迂回を頼んでいた彼女の姿。車が上がった時のお互いの笑顔と歓声。「またね」と言って別れたのに。私はあなた方に言ってない大切な言葉があるのに。届いて欲しい。届けて欲しい。どうか。「ありがとう」
 あなた方は私にとって一番のヒーロー。暗闇からの使者、シルエットヒーロー。
 お元気ですか?シルエットヒーロー様。もう一度、心からあなた達に会いたい。

原田夏希さんへ 赤崎 茂樹(東京都福生市)

若葉ちゃん…そして、ありがとう!

 職業柄、無名の庶民から著名人、芸能界に至るまで全国の多くの方を取材させていただき、4年前定年退職するまで、一期一会の出会いを築かせていただいたと感謝しています。
 なかでも、強く印象に残った人がいます。宮崎県日南市飫肥(おび)での“出会い”です。平成16年初夏、その日はテレビドラマ「わかば」のロケがありました。阪神淡路大震災で父を失ったヒロイン・高原若葉が父の志を継ぎ造園家として生きる物語。
 飫肥城址奥手には樹齢百年余の飫肥杉がそびえ立つ。木漏れ日差す杉木立の中に、さわやかな笑顔で登場したのが若葉役の新人女優でした。第一印象は「明るく芯が強くて清楚。透明感のある新人だな」。
 共同記者会見で、共演のベテラン女優も「彼女に接していると、鹿鳴館や与謝野晶子、大正時代のモダンガールを思い起こします。古き良き時代の日本女性の良さを持っている」。記者団も皆うなずいていました。
 同年秋、ドラマがスタート。私も全国の視聴者同様、ヒロインの一挙手一投足に笑い、泣き、感動の半年間でした。震災で傷ついた家族を思いやるヒロインの健気な生き方に心打たれた一人です。
 新人女優の伸びやかな演技に魅了され、妻と共にドラマを見ては感想を語り合いました。ヒロインの決めセリフ「Go Fight Win!(チアリーディングの掛け声)」「笑顔、笑顔!」は今も耳に残っています。
 ドラマの最終回と私の定年退職が、ほぼ同時進行でカウントダウンしていたせいでしょうか。福山雅治さんの主題歌『泣いたりしないで』が、とりわけ身に染みて感じられ、心新たに現役生活を辞することができました。
 「若葉ちゃんにエールを送られながら第二の人生を迎えたみたいネ。」妻の一言が胸に響きました。
 ヒロインの夢は「街を緑でいっぱいにしたい」という一点でした。―その後、私はわが街の市民大学環境講座の受講生に。修了後も足元の第一歩からと、エコ生活を心掛ける日々です。
 詩人・土井晩翠の筆名は、冬枯れの時、なお草木が緑色であるとの意味の漢詩の一節に由来する、といいます。冬の寒さに耐え、じっくりと成熟する。私も、素敵な出会いに感謝しつつ、悔いのない歳月を過ごしていきたいと思います。
 末筆ながら、ヒロインを演じたのは誰あろう、原田夏希さん、その人です。若葉ちゃん、そして原田さん、本当にありがとうございました!

スーパーのおばちゃんへ 中田 伸一(石川県金沢市)

P・Pおばちゃんへ

 前略
 ○○スーパーマーケットのレジのP・Pおばちゃん、いつもありがとう。あいかわらずの不景気で、御多分に洩れず、ぼくの給料も下がりつづけております。なんとか食費も切り詰めなければならないと、P・Pおばちゃんの勤めるスーパーで、半額とか2割引の「おつとめ品」をよく買わせていただいております。戦中派のものの無かった時代に生きたわけでもないのに、近頃では「モッタイナイ、モッタイナイ」がクチグセとなり、「ぼく、地球の塵(ごみ)を減らすため!食べ物そまつにしちゃイケナイ!!」などとほんとうはおカネ無いくせに、強がっております。でもやっぱりカゴを持っている姿勢が貧相に見えるのでしょうね。他の多くのレジのお姉さん達は、精算時必ずぼくの顔を見下したように眺めます。そして面倒臭そうに割引キーを押しまくり、赤いラベルの貼ってある「タッパ入りの韓国キムチ」とか「おたふく3P納豆」のところでは必ずミスります。(精算に手古摺るというより、見落とすのです。なぜなら割引シールも赤色なので。)
 しかしそれにもかかわらず、パンチパーマの似合うP・Pおばちゃんだけは、これまで一度たりとも間違ったことがありませんよね。(ちなみにP・Pとは、パンチパーマの略です。)
 いつも元気に「いらっしゃいませ!!」。金持ち客でも賤民でも別け隔てなくレジで迎えてくれますよね。「無理しなくてイイのよ、お兄ちゃん。」などと、まれにカゴの中に正規価格の品物が入っていようものなら偉く感動して下さり、ぼくのプライドを決して潰したりはしませんよね。
 これが「信頼」と「安心」といわずして、何と申しましょう。
 P・Pおばちゃん、ぼくはいつかきっとこの不景気に打ち勝ち、買い物カゴの中をマスクメロンと霜降り松阪牛と松茸とあわびとキャビアとトリュフとルビーロマン(石川県名産大粒ぶどう)でいっぱいにしてみせます。そして「釣りはいらねえ、取っ置(と)きな、ベラボウメ!」などと啖呵を切れるようにがんばりたいと思います。
 P・Pおばちゃん、これからもどうかよろしくお願いします。
 草々
 2009年盛夏
 伸一

亡くなった母へ 福重 道代(岐阜県多治見市)

お母さんへ

 あなたが逝ったのは30年以上も前の、私が高校3年生の冬でした。その1年くらい前にあなたの余命の宣告を受けた私はただ驚くばかりでした。そしてその事実を受け入れたくない気持ちがある一方で、だんだんと状態が悪くなっていく現状に、事実として受け入れざるを得ない状況でした。17才の私には受け入れるにはあまりにもショッキングなことであり、かかえきれずに苦しんでいました。「生きる」って何?「死ぬ」ってどういうこと?「家族」って何なの?答えの出ない問いに、いつも本を読むか、考えるか、どんどん内向的になって、毎日暗い顔をしていたと思います。ごめんなさい。最期の時、明るい顔で「お母さん、ここまで育ててくれてありがとう。これからは自分なりにがんばって生きていくから心配しないでね。」と言ってあげられなかったことを今でも悔やんでいます。
 あれから30年がたち、3人の子を育て、末娘が20才になった今だからわかります。子を残して死んでいく親の心残りが。娘の成人式の振り袖姿も見たかったでしょう。花嫁姿も見たかったでしょう。孫の顔だって見たかったでしょう。一番つらかったのは、お母さんだったのでしょうね。しかし、私はお母さんから、人として生きる基本というか肝というようなものをしっかり受け継ぎましたよ。愛情豊かに、厳しくもありやさしくもあり、その母としての姿は心に刻まれています。ところが残念なことに、お母さんから受け継いだものを子供たちに引き継げたのかといえば、いまだにできていないように思います。
 あなたが逝った50才をこえる年齢になった私が、あなたへの手紙を書くにあたって振り返ってみると、子育てに限らず、人生そのものに対して私には厳しさがたりなかったとつくづく感じています。いまだに、私にいろいろなことを教えてくれるお母さんに対して、今となっては伝えるすべもありませんが、感謝の気持ちでいっぱいです。
『お母さん、ありがとう!』
『お母さん、ありがとう!』
きっとどこかで受け取ってくれますよね。お母さん。

親切な人へ 池田 智美(滋賀県東近江市)

どこかにお住まいの貴方へ

 もう既に十八年程前の出来事になってしまいました。私が改めて「ありがとうございました。」と御礼の言葉を伝えたい貴方は、あの時の様に今もどこかで世の中の為に働かれているのではないかと思います。お元気でいらっしゃいますか?
 今年私は四十五歳になります。主人と二人の娘に囲まれて幸せに暮らしています。長女が二歳前後の頃の事だと思います。その頃はまだ親子三人で、休日に車で私の実家に行った日の事でした。帰り道に娘が、「おしっこがしたい…。」と言い出して、近くにスーパーが見えて来たので、娘に「あそこまで我慢ね。」と言い、主人にスーパーの駐車場まで行ってもらいました。着くなり娘を連れトイレへ駆け込みました。しかし、数秒間に合わず、トイレのドアの前で漏らしてしまったのです。下半身がずぶ濡れになった娘に、私はとっさに「着替えの服買って来るから待ってなさい…絶対すぐ帰って来るからここに居なさいね。」と、軽はずみにも娘を待たせたまま子供服売り場に走ったのです。適当に替えの服を買ってすぐにトイレに戻るつもりでした。
 服を買い終えた後だったのか、まだだったのかは忘れましたが、店内アナウンスの声が耳に入って来ました。確かに私の娘の事の様です。慌ててサービスカウンターに行って見ると、優しそうな貴方が娘をしっかり抱っこされて私の方へ寄って来て下さったのです。隣には、貴方と同じようにとても優しそうな青年が寄り添って居て下さいました。私はその瞬間、自分の母親としての甘さにとっても恥ずかしい気持ちになりました。娘はおしっこを漏らし店内に連れて行けない程ビショビショになっていたのに、まだ学生さんの様にお見受けする若い貴方が何のためらいもなく、私が迎えに来るまでずっと抱いて居て下さったのですね。娘は一人で待てず、心細くなって泣いて居たのでしょう。貴方は母親の私が娘を迎えに来たのを見るなり泣きじゃくった様子の娘のことを思い、とっても喜んで下さいましたね。本当にあの時の貴方のご親切、優しさには頭が下がる思いです。今思うと、あの時の私は母親として軽はずみな事をしてしまったと反省ばかりです。そして、娘のおしっこで貴方の洋服も濡れてたいへんだったのではないでしょうか?その時の私は、そんな事にも気が回らず、お名前も聞かずそのまま帰って来てしまいました。申し訳ありませんでした。あれからもずっと貴方の優しさは忘れる事が有りません。そして、娘はお陰さまで元気に成人させて頂き、今では社会人の一員として働き始めました。改めてあの時の暖かいご親切に、心からありがとうございました。

母へ 中野 真理子(大阪府藤井寺市)

「母強し」母へ―――

 私が小学一年生のあの時、覚えてくれていますか?
 左目が弱視で「アイパッチ」して通学していた頃です。
『「丹下左膳」やぁ~い!』
『オッ「女海賊」のおでまし~!』
 そう言われて、いじめられたねぇ。
『もう「アイパッチ」していかへん!』
 私がお母さんに言った時、とても困った顔してたよー。でも、その時、私に何も言わなかったねぇ。
 でも、何故、何も言わなかったのか、今となっては、分かる気がするの。
 明朝、『おはようさん!』
 私に声かけるお母さんの顔を見て私びっくりしたよ。
 だって、お母さん本人も「アイパッチ」して、つったっているんだもん。『お母さんも目が悪くなっちゃった…。フフフ…』
 そう言って、ごまかしてたけど、あれは、お母さんの最大の愛(eye)だったんだ。とてもとても名女優だったよ。
 そう言うやお母さんは、私といっしょにその日から集団登校に参加してくれたね。
 胸張って堂々といっしょに歩いてくれた。歩いて20分、学校に着いてもしばらくは私をじっと見ていてくれたね。
 私は知ってたよ。鮮明に記憶があるわ。
 やがて、いじめっ子たちは、私をからかわなくなっていった…。
 お母さんは、毎日毎日、どんなに忙しくても、どんなにしんどくても、一年半あまり、こうした生活を続けてくれたねぇ―――
『ほんま、ありがとう!』
 母は偉大
 “母強し”と今、実感しています。
 私も一児の母となり―――
 この先、どんな「ドラマ」あるのだろう?お母さんの、ライバルのような子の母でありたいと願うのです…。

野球部の先生へ 香川 雅之(香川県綾歌郡)

角野先生へ

 先生、お元気ですか。S中学校野球部でお世話になった香川です。私が中学校3年生の時、先生は新任教師として赴任され、野球部の顧問となりました。先生の野球にかける情熱や練習の厳しさ、とりわけ、シートノックの際の打球の速さが今でも忘れられません。
 先生が赴任された年の春の県大会で私たちは準優勝しました。県下屈指の左腕投手と対戦し、延長戦にもつれこんだ準決勝での疲れが出たためか、決勝戦では打線が低調で完封負けを喫しました。実は、準決勝戦が延長戦になった原因の一つが、私の2つのサイン見逃しでした。角野先生やチームメートに大変な迷惑をかけました。プロ野球の世界であれば罰金に値するミスをした私でした。今でも夢を見ることがあり、私の青春時代の苦い思い出の一つとなっています。
 準優勝という輝かしい成績も、一部の保護者から監督の采配がまずいから優勝できなかったと批判されました。批判されるべきは、緊張してサインを見逃し、チャンスをつぶした私です。しかし、角野先生は私の失敗を決して責めませんでした。それどころか、準決勝戦の延長9回裏にボールに食らいついてライト前ヒットを打ち、サヨナラ勝ちのきっかけを作った私を褒めてくれました。
 角野先生から野球の指導を受けた期間は短期間でしたが、生涯忘れられない感動の場面と出会うことができました。最後の夏、S市内大会の決勝戦に進出した私たちは、最終回に4点差をひっくり返して、逆転サヨナラ勝ちで優勝し、県大会出場を果たすことができたのです。春の県大会後に部内が揺れ動き、レギュラーの退部者も出て戦力が落ち、夏の市内大会での優勝も難しいと言われていましたが、きっと、お天道様が若い先生とその先生を慕う子どもたちに、勝利と感動を贈ってくれたものと思います。夏の県大会では一回戦で、春の県大会優勝校と再び対戦し敗れました。この試合での最後の打者が私でした。内野ゴロで必死に一塁へ走り、ヘッドスライディングをしましたが、塁審の判定は「アウト」でした。体が小さく非力で、普通に考えればレギュラーになれそうにない私を、角野先生は最後まで見守ってくれました。「香川、小さい体で苦しい練習によく耐え頑張ったな。ごくろうさん!」という試合後の角野先生の言葉を、今も私は忘れられません。「角野先生のような先生になりたい!」という思いをその時強く抱きました。
 私は、厳しい世の中を行き抜くために必要な「意欲」や「やる気」という大切な宝物を先生からいただきました。そして、先生の存在が、私を教職の道へと導きました。今、私は教員として次代の我が国を担う子どもたちの教育に携わっています。とてもやりがいのある仕事です。日常の姿を通して私に人生の方向づけをして下さった角野先生、先生は私の人生の大恩人です。今も感謝しています。

本屋のおじさんへ 吉村 金一(佐賀県鹿島市)

『元気、現役、八十歳』

 母の古里にある本屋のおじさんが八十歳を過ぎた今でも元気に営業を続けておられると聞き、とても嬉しくなりました。
 小さい頃は母が帰省するたびについて行き学習雑誌や絵本を買ってもらっていました。入り口には絵本やぬり絵がくるくる回る棚に納められており、通りに面して雑誌を並べた平台を据え、三方の壁には文庫と新書と漫画をぎっしりと詰め込んだ八畳間くらいのお店でしたね。
 おじさんはいつも右手奥のレジに居て、通りを行きかう人達を眺めながら静かに座っておられましたね。
 おじさん覚えておられますか?あれは僕が高校生の頃だったでしょうか。手に取った一冊は紙が酸化して茶色くなりかけた十年前の本でした。
 返本もされずにこの棚で買い手が現れるのをじっと待っていたのです。この古いながらも新品の本は、もちろん昔の定価が刷り込まれたままでした。
 小遣いの少ない僕にすれば、本の古さなどたいして気にはなりません。棚から三冊取り出して、財布を開けながらレジのおじさんに渡しました。
 おじさんはちょっとびっくりしたような表情をされましたね。そして差し出された三冊の本を眺めながら、僕に向き直ってこう言われましたね。
「この本を買ってくださるんですか?」今度は僕がちょっとびっくりして言いました。
「そのつもりなんですが…」
 おじさんは困ったなぁという様子で頭をぐるぐる回された末に、「あげるから持ってゆきなさい」と言われましたね。三冊の本を重ねて僕の手に握らせようとするおじさんは真剣な目をされていました。
「だけど…」と僕は答えました。「じゃあ十円、十円置いてゆきなさい。これで納得いくでしょう」
 僕はおじさんから言われるままに財布から十円玉を一枚取り出してレジの横に置いたのでした。
 おじさんはほほ笑みながら本を袋に入れてくださいましたね。僕は「ありがとうございました」とお礼を言うと申し訳ないような気持ちでお店を後にしました。
 振り返って見ると、おじさんはいつものようにレジの向こうに座って静かに外を見ておられました。
 おじさんの優しさと思いやりが心にしみて胸がいっぱいになりました。
 あれから三十数年が経ちました。あの日以来おじさんに会っていませんね。おじさんもお年を召されたので、もうお店はないだろうと思っていました。ところが母から元気で頑張っておられると聞きました。
 おじさん、今度母と一緒に遊びに行きます。五十一歳になった僕のことを覚えておられるでしょうか。今からワクワクしています。
 あの時は本当にありがとうございました。

母へ 林 幸介(宮崎県宮崎市)

母の日2008

 小学生の頃、なんだかよくわからないまま校長室に呼ばれて、「君はお父さんがいないけどこれからも頑張りなさい」という言葉と一緒に文房具をもらったのを、今でも覚えている。
 そういえばこの頃から、自分の家が母子家庭であるという状況を妙に納得できていた気がする。かと言って父親のいる家庭が羨ましかったかというと、そんなこともなかった。だからなんでこんな文房具の詰め合わせを自分が手にしているかが不思議やった。
 そんな感じで今までずっと、父さんがいない事に対して重く考える事がなかったから、この点においても、母さんは子育て上手と言える。
 母さんは当時、二人の息子を自分一人の給料で養い、守り、教え、躾、叱り、褒め、とにかく全てをこなさないといけない状況に直面した時、きっと不安を感じたと思う。それから何かある度に、拭いきれないものがあったと思う。
 母子家庭というハンディを背負ってきた母さんの気持ちは、何となくは想像できるけど、やっぱり全部計り知ることなんてできないかな。けれど、今の自分を改めて考えてみるとわかる。母さんの愛情を確かに感じる。
 いつの時も、根気強い優しさと寛容さを以って接してくれていた事は、実感している。本当にありがとう。今まで大変だっただろうけれど、本当にありがとう。
 ここで、ずっとあなたに育てられてきた俺だから、言える事を言おうと思う。母さんのしてきた事は、きっと限りなく理想的で、およそこれしかないという最善策ばかりだったと思う。だって俺と兄ちゃんはこんなにもしっかり生きているから。
 ありがとう、かあさん。
あ、また思った。母さんの子どもに生まれて本当に良かったって。それから母さんを見習いたいから、母さんの事をもっと知っておきたいって考えていると、父さんの事ももっと知らないといけないなって最近思い始めた。そしたらまたタイミング良く、伯父ちゃんが父さんとの思い出を話してくれた。父さんが大学生の頃、伯父ちゃん夫婦の所に遊びに来る日は、当時百グラム百円だった牛肉で焼肉を楽しんだんだって。それから父さんが日体大の応援をして見せたりとか、花屋のバイトで貯めたお金で、伯父ちゃん達を食事に誘ったとかね。
 ちょっとした話だったけど、それでも嬉しかった。涙が出そうやったね。耐えるのにちょっと頑張った。
 昨年のメールに伝えたい事を凝縮させてしまったから、今回はこんな感じの贈る手紙です。
 またいつか、美咲も連れて帰るね。身体には気をつけて、健康でいてください。サヤとソラも。

 あなたの息子より

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