第3回しんきん「ありがとうの手紙」キャンペーンの受賞作品のご紹介
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ありがとう大賞
亡き母へ 片山 ひとみ(岡山県備前市)

おまじない言葉

 あと、一年じゃな。母ちゃんが、胃癌で亡くなった四十八歳と同い歳になるのは。
 私が高校一年、妹は高校受験の一週間前じゃった。
 病院へ行くと、入院七日目なのに、起き上がることもできん。浮腫と点滴の跡でパンパンに腫れた白い手を伸ばし、「二つ、お願いがあるんじゃ」と、かすれた声で言うたよな。
 私らは、痛ましい姿に驚き、洪水のように溢れる涙も拭わず、細い手を姉妹の両手で包み込んだ。母ちゃんは、荒い息をしながら目を閉じて、意を決したように告げたんじゃ。「一つは、父さんを恋人のように大切にして」とぎれとぎれの言葉の後にな、今度は目をはっきりと開け、姉妹を交互に見つめたんよ。「二つ目は、ありがとうは、お礼言葉と思われとるけど、本当は、おまじない言葉なんよ」
 首を傾げる私らに、「本来なら有り難い幸せが来る、不思議パワーの招福言葉よ」、と。
 長い咳をして、「だからな、どんな時も、どんな境遇でも、どんなに不幸じゃと思うても、ゴマ粒ほどの小さなことに、『ありがとう』を忘れたらいけんで」と言うたよなぁ。
 その時は、肉親との永遠の別れの緊迫感で、「うん」と、深くうなずいた私らじゃった。
 でもな、反抗期まっただ中。母ちゃんが末期癌と教えてくれなかった父への恨みは燻るし(受験の妹が動揺するとの配慮で)、思春期の目に、父は、ただの暑苦しい中年。「恋人なんて、真っ平ごめん!」じゃったんよ。
 葬儀後、会社員と母親業もこなす父を避けとった。「ありがとう」は言えたのにな。
 恋人にはなれんかった。
 母ちゃん、一つ目の約束守れず、ごめんね。
 でもな、父は県外の大学へ進んだ私たちを呼び、京都の祇園祭や、元海軍の思い出の地、広島の呉市の歴史博物館、原爆ドームなどへの旅行を色々計画してくれたんよ。
 嵐山の渡月橋でな、前を歩く父の背中がずいぶん痩せて小さく見えた時、仕事と家庭を両立させ、二人の娘を私立の四年制へ進学させる費用をどれほど苦労と辛抱して積み立ててきたか、まざまざと知る思いがしたんじゃ。
 当時、バブル全盛期。物は溢れとったけど、ひなびた旅館を予約してな、「こういう所の方が、わしの性分に合うから」と笑う父に、つつましやかに生きてきた証を感じたんよ。
 私が結婚する際も、「片親で、何も用意できてねえと思われたら、かわいそうじゃから」と、着物もタンスも家電も、近所のおばちゃんらに風習を尋ねながら、揃えてくれたんよ。
 私は、今、心で手を合わせとるんよ。
 あなたたちの子に生まれて幸せじゃったと。
 そうそう、不思議なことがあるんよ。大学1年生の長女が、「ありがとう」をすぐ口にできる子に成長してな、先生やご近所に、「今どき、貴重な素直な子」と感心されているんよ。
 お母ちゃん、おまじない言葉が、数えきれない幸せを運んでくれとるよ。ありがとう!

しんきん賞
40年来の友人へ 地主 朝子(北海道札幌市)

今日も、ありがとう。

駅で別れて直ぐ霧雨の煙る中、バスを待ちながら、教えて貰ったことを復誦していました。ちょっと前までは忘れてしまうなんて事は無かったのに…この頃は少しすると忘れてしまう事が多くなりました。
(汁ものに澱粉少し入れると喉ごしが良い、生姜・胡麻・海苔・葱など食事の都度採る)帰宅して直ぐメモをしました。そうです。「独り暮らし覚え書きノート」にです。
一緒に食べた物も記入しました。貴女も私も独り暮らし。食生活は一番大切なのに、有るもので間に合わせてしまう私と、栄養・カロリー計算・調理も出来る貴女。会うたび色々と教えて貰うレシピも一度は必ず作ってみても、あとは三日坊主でごめんなさい。
(自分の事は自分で管理しなきゃだめよ。医者任せなんてとんでもないわ)貴女の言葉だけは確り覚えているのですが…何かと心配して戴きながら、どうしてこんなに(禁煙も含めて)だらしがないのかと我ながら愛想が尽きてしまいます。
でも…会えば元気を貰える。
それだけでもすごいことでしょ。大仰だけど生きているって感じられるんですから。
 そして四十年以上も友達で居てくれていることにも感謝…独りでポッチンと生きていたら多分死んじゃってるかも。
(これって充分、貴女に甘えているんでしょうね)お忙しいなか、私の為に時間を割いて戴いているのですから、頑張って生きなきゃ本当に罰が当たりますよ。
 あ、先程までの霧雨が本格的などしゃ降りになりましたが大丈夫ですか。一軒寄る処があると言ってましたが、もうご帰宅でしょうか。夜の雨は夏でも身体に障ります。むかし、夏の雨に遭って薄手のワンピースが身体に貼り付いてヌードさながらに歩いていたことを思い出しました。若かったんですね。そして風邪で会社を二日も休んだこと…もうやり直しが利かない歳になりました。頑張って生きるしか無いから、ガンバリます。
 妙ちきりんなお便りになりましたが思いつくまま書きました。よろしくご判読のほど。
 七月七日
 ともこ拝
  あきこさま

電車トモダチのおじさん、おばさんへ 成田 唯(青森県弘前市)

電車トモダチのおじさん・おばさんへ

 おじさん・おばさん、お元気ですか。私は今、夏休みの真っ只中です。最近私がいつもの電車でお目にかからないのはそれが理由なので、夏休み明けにまた元気で会えるのを楽しみにしています。
 おじさんとおばさんに初めて会ったのは、たぶん…私が大学に入学して最初の登校日だと思います。大学まで毎日電車通学で、ほとんど同じ電車で通い、なんとなく居心地の良い二輌目の端っこの席にいつも私は座っていました。おじさんとおばさんは二人で並んで私の隣に毎日座って電車で通っていました。学校に慣れるのに精一杯だった四月が過ぎ、確かゴールデンウィーク過ぎた頃だったかなあ。それまで学校を休んだことの無かった私でしたが風邪で熱が出てしまい、ちょうど週の真ん中に学校を休んでしまいました。もうそろそろ大学生活や、満員電車で学校に行くことにも慣れてきたところで、だいたい自分の周りに乗っている人の顔も覚えてきていました。一日だけ休み、その日のうちに熱が下がったので、次の日には学校に行くことができました。ところが、その日に限って朝寝坊をしてしまい、いつもよりも10分程遅くに電車に乗ったのです。始発なので置いて行かれる心配は無用だったのですが、なんせ朝の通勤通学で満員になる電車なので、「今日は遅く来ちゃったから立ったままだなぁ。きっと座れないだろうなぁ。」と思っていました。電車のドアを開け、いつも座っている端っこの席に目がいきました。すると、いつも乗っているおじさんとおばさんがニコニコして私の顔を見ていました。視線をシートに落とすと、おじさんが持っているカバンが置いてありました。すると、おばさんは、「いつもここに乗ってるから、昨日も来ると思ってとっておいたんだよ。」と言って、おじさんはカバンを膝の上に置き直しました。「いやぁ、昨日は風邪を引いてしまったみたいで。ありがとうございます。」と私は返しました。
 おじさん、おばさん、私達が「電車トモダチ」になったのはこれがきっかけでしたね。それからはほぼ毎日、朝イチの授業が多いということもあり、おじさんとおばさんと同じ電車で一緒に通いました。おじさんがポケットからアメを出しておばさんと私と三人で食べたり、おばさんの初孫自慢を聞いたり、毎朝電車に乗るのが楽しみです。ある日、私が電車にリュックを置き忘れたまま乗り換えの電車に乗った時も、おじさんが「リュック忘れてるぞー」と教えてくれたので私ははっとしてリュックを取りに行き、ギリギリ乗り換えに間に合うことができました。
 最初は慣れない電車通学を楽しみに変えてくれたおじさんとおばさん。毎朝楽しい時間をありがとう。

あたしのキライな人へ 福戸山 夕季(広島県呉市)

あたしのキライな人へ

 あたしは前々からあなたがキライなんだけどね。それと同じぐらい感謝してるとこがあるんよ。ちょっとわけが分からないかもしれないけど、今から書くけんね。
 あたしはいつもあなたがすることが気に入らないから、ニコニコしてても対抗心メラメラ燃やしとんじゃ。たぶん気づいてないはず…。体育の授業とかであなたはいつも大活躍して目立っとるじゃん。あたしもだいぶ目立ちたがりだし、1人で競い合ったり…。それでもどうしてもとどかなくて1人で悔しがるんじゃけどね、いつも。でも、競い合ってるうちに自分の記録もあっという間に超えとったりして。それでたくさん喜んだりしたし、褒められた。まずはここであたしの記録をのばしてくれたことにありがとう。
 何でもできるあなたでも苦手なことがあると知った時は正直、嬉しかった。それがもし自分の大得意なことだったりした時は倍嬉しかった。パソコンの授業であたしがちょっとスラスラできとったら素直にできんところを聞いてきてくれたけん、ちょっと嬉しかった。あたしが勝手にライバルと思っとるだけじゃけん、あなたはごく普通に友達として接してくれとる。そんなことがあるたびに、勝手なあたしが恥ずかしく思えてくるんじゃ。素直だからいろんなことが吸収できるんかなって勉強になったよ。じゃあここでまたありがとう。
 あたしはたぶん…絶対、これからもあなたをライバルにすると思う。勝手にそうするけん!決めた!だから、これからもあなたはなんでもできて、あたしが羨ましがるような人でいてください。そしてあたしが調子に乗るけん、できんことは、あたしを追い越すくらい、どんどんできるようになってね。それに合わせて、あたしもどんどん成長してみせるけん。
 今年は受験で忙しいし、もう高校生になっちゃうし、残す時間は少ないけど、お互いに頑張ろうね。
 これまでキライな人でいてくれてありがとう。
 これからもよろしく。

旅先で泊めてもらった人へ 川中 学(愛媛県伊予郡)

 真っ青だった空の白い入道雲がやがて夕日にオレンジ色に染まり始め、その向こうに夜が近づいていることを知らせてくれる頃、八月の空を見上げる度に、私は今でも貴方のことを思い出します。
 お元気でいらっしゃるのでしょうか。あのお店は変わりましたか。あれから32年。私は、今も悔やんでいます。何故あの時、貴方のお名前やお住まいを聞いておかなかったのだろうかと。もう一度、貴方にお会いして、あの時のようにお話がしてみたいと。
 「昭和52年、新潟県十日町、国道沿いで自動販売機が並ぶ無人店舗を経営されていた方」これだけでは、貴方への手紙が届くはずは有りませんよね。あの時の二十歳の青年を貴方は、覚えていますか。
 お店の中には、テーブルと椅子が有り、私は、両手を枕に寝ていましたよね。他人と自分自身にも突っ張っていた私は、無口で無愛想な青二才に見えたことでしょう。外のバイクを見ながら、貴方から話かけてくれました。「愛媛から北海道を廻って来た」
 「奥に部屋がある、休んでいけ」宿無しの私には有難いお誘いでした。「○○と言う名の宇和島市出身の女性を知らないか」貴方からの唐突な質問に戸惑いました。昭和19年勤労奉仕で神戸の軍需工場にいた貴方は、砲弾を作っていたそうですね。そこに、かの宇和島の女性も来ていた。貴方は、彼女との会話の様子を私に詳しく話してくれましたよね。薄暗い灯りの中でしたが、貴方の目は輝いていました。まるで、去年のことのように彼女の仕草や表情までもが記憶されている。私は、不思議な感覚の中で貴方のお話を聞いていました。
 どの位の時間が経ったのだろう「明日の朝また来るけれど、ここで寝ていけ」そう言って貴方は、ご自宅へ帰られましたよね。「人を愛すること、純粋な想い、守りたいもの何だろう、何だろう」私の頭の中はぐるぐると渦を巻きながら眠りに就いていました。
 自販機から回収した百円玉の山、自販機に入れる前の商品の山。翌朝、目覚めた私は、昨夜は気付かなかった部屋の様子に驚きました。そして、それは直ぐに恐怖に変わりました。貴方から「盗んだだろう」もしも、そう言われたらどうしようかと。心臓がドクドクと動いたことを、今でも覚えています。このまま、ここを発って行ったらどうなるのだろうか。悩みながら、私は、貴方を待つことにしたのです。
 「よく眠れたか、外の水道で顔を洗え」そう言っただけで、貴方は、自販機への補充を始めていましたよね。身支度を終え、出発を告げた私に、貴方は、にこっと笑ってただ片手を上げただけでした。
 「人を愛すること」「人を信じること」二十歳の私は、初めて理解しました。あれから、32年経ちました。貴方は、今もお元気でしょうか。十日町は変わったでしょうね。でも、私の「人との接し方の原点」は、あの時から変わっていません。有難うございました。そして、この思いが貴方へ届くことを願っています。

中国へ帰国した最愛の娘へ 中尾 公望(佐賀県佐賀市)

中国へ帰国した最愛の娘へ

 その後、元気にしていますか。父さんや貴女の願いも叶わず、五年間の日本での留学生活を終え、家族の待つ中国へ帰っていきました。
 第一回の「しんきんありがとうの手紙」で、貴女はありがとうの気持ちを父さんに伝えたく応募し、見事活字になって父さんのもとに届きました。あなたのありがとうという気持ち、うれしく泣きながら受け取りました。父さんこそ本当にありがとうでした。
 貴女のように、他人の気持ちが理解できる優しい娘の日本での父親役が五年も出来たからね。今度は父さんが異国の貴女にありがとうの手紙を書く番です。
 貴女が福岡空港から故国へ旅立つとき、父さんは男泣きに泣きました。貴女は、父さんが気が狂うのではと思ったでしょう。貴女は孤独だった父さんに生きがいをくれ、そしてその生きがいを中国へ持って帰ってしまいました。でも、ありがとう。貴女との五年間の生活は本当の親娘のように仲良く、楽しく、たまにいがみ合うこともありましたが。
 バイトと勉学、そして偏屈な父さんとの生活、本当にお疲れ様。日本人の学生と同じ土俵で勉強させられなかったこと申し訳なく思います。つらいこと、悲しいこと、口惜しいことがあったこと、父さん知っていました。
 でも貴女は良くがんばったと誉めてあげたい、そして父さんは自慢したい。それと日本での生活が良かったと思ってもらえたのか心配。
 どこかで赤い糸で結ばれていたのか、神様のいたずらなのかわからないけど、貴女と神様にありがとうと言わなくてはいけない。でも貴女との別れは父さんの人生で一番辛いものでした。それほど貴女との五年間は父さんの人生のすべてだった。
 これからの中国と日本に別れての生活はとても辛いです。でも貴女の幸せを願っているからね。貴女はいつも父さんの胸の中、父さんも貴女の胸の中に住みたいけど、いいかな。
 父さんも、生まれた中国で一生を終えたいね。貴女の手を握り本当にありがとうという気持ちを伝えてね。日本では別れの言葉は「さようなら」ですが、中国では「再見」(ザイチェン)でしたね。最後に再見いや改天見(ガイデェンジェン)「いずれまた」で筆を休めたい。
 最愛の娘、どうか父さんを忘れないで下さい。父さんは欲を言わせてもらえるなら、一昨年の入選した貴女と今年の父さんのありがとうの手紙を、他の人たちにも読んでもらいたいのです。親子、家族が一緒に暮らす当たり前の些細なことですら、幸せを感じながらも、望むことの叶わなかった私たち親娘がいたことを。そして些細な幸せを大事にしてくれる人たちが、一人でも多くいることを願いたい。今夜も枕が濡れるかもね、父さん泣き虫かな。

ふれあい賞
送ってくれた人へ 小野寺 ヨシ子(岩手県一関市)

山の中で出会った神さまへ

 平庭高原から、十和田湖まで送っていただいた者です。十和田と平庭高原に行く資料を間違えて、急いで新幹線にとび乗ったのが、大失敗でした。車中、平庭高原に咲くツツジや野の花を想い、一年ぶりで会う「いわてマナビィ会」の仲間たちとの再会で心が満たされていました。
 約束の時間より15分遅れて、ようやく平庭高原に到着。いるべき友達が誰もいないことを不思議に思い、今日のホテルに問い合わせをと思い、近くの店に入りました。店主の人が今日はホテルの予約が入っていないという。
 私は慌てた。手帳を取り出し予定表を見ると、今日は十和田に行く日で、平庭高原は17日後だ。十和田湖行きで約束した友達は、どうしているだろう。私はパニック状態になり、ここから十和田までどのように行ったら早く行けるかを聞いた。盛岡に戻るより久慈まで出た方が早いという。私はタクシーを呼んでほしいと頼んだ。
 その時「待った」という声が聞こえた。店主と私の会話を聞いていたという、店で食事をしていた福井さま、あなたでした。とりあえず、久慈まで送っていただくことになりました。車にのると、久慈に行っても連絡が悪く、今日中に十和田に着かないことを話されました。地理に疎い私は、なんとかなるだろう、なんとかしようと思っていました。恐縮する私を、とうとう十和田湖まで3時間半もかけて送っていただきました。山の中で神さまにお会いしたようでした。世の中には、理解に苦しむ凶悪な事件が多いのに、このような人に出会えたことに感動しました。
 初対面の見ず知らずの者に声をかけ、車中のおしゃべりも有意義で楽しく、流れゆく外の景色に心やすらぎ、とくに奥入瀬渓流の美しさは、そこに住みたいと思うほどでした。
 かつて北欧に行った岩手県の女性海外研修の仲間たちと、無事に十和田湖グランドホテルで会えました。その晩は今日助けていただいた神さまの話題でもり上がりました。
 何度も何度も申し訳ないという私に「今まで多くの人々に助けられてここまでこれた」というあなたの言葉に人柄を感じました。
 私の大失敗で、このようないい出会いをいただきました。
 今度は、私がお返しをする番です。勇気を出して声をかけ、行動しようと心に誓いました。
 明日は、どんな出会いがあるのか、ワクワクします。
 神さま、福井さま、感動をありがとう。やさしい心にありがとう。

病院につれていってくれた人へ 阿久津 美咲(茨城県水戸市)

あのときのお兄さんへ

 今もそうですが、幼い頃から動くことが大好きで、かすり傷のたえない私でした。
 あの時もそうでした。私は覚えていませんが、母からこんな話を聞かされたことがあります。母が銀行で、お金を下ろしている間、ロープにぶらさがって、一瞬にしてひっくり返り、頭に傷を負ったそうです。けがに慣れていた私は、とくに泣いたりはしなかったそうですが、血が止まらなかったためどうしようかと困っていた母に、一人の若い男の人が「どうぞ使って下さい」とハンカチをさしだし、「病院へ行った方がいいですよ。お子さんだいては運転できないでしょうから、私が病院まで送ってあげますよ。」と声を掛けてくれたそうです。母は今でも「あの時は、ありがたかったわ。全く知らない親子に声を掛け、しかも病院まで連れていってくれるなんて本当に親切な方だったねえ。」と私がけがをするたびに話しています。病院では、すぐ診察してもらえたそうで、おかげでうっすらとした傷あとですみました。「小さな傷ですんだのもお兄さんのおかげだなぁ」と心から思います。優しい方で本当に感謝しています。
 困っている時に、その人の立場になって考えて実行するということは、簡単なようで、とても勇気が必要です。親切なつもりで声を掛けたのに知らんぷりされたり、逆におこられたりした時もあります。そんなときは、とても悲しくなります。最近は「知らない人に声を掛けられても、ついていってはいけないよ。」と親からも、先生からも教えられています。確かにそのとおりなのですが、親切な気持ちで、手を貸してくれる人も世の中にはたくさんいます。あの時、声を掛けて、私たち親子に親切にしてくれたお兄さん。本当に感謝しています。
 人が助け合って生活することって、素敵なことですね。私もお兄さんに負けないくらい優しい気持ちを持って、これからも生活していきたいと思っています。
 あなたの優しい心が、いつまでも私の心の中に生きています。
 ありがとう。

婿へ 敦賀 敏(埼玉県草加市)

『婿殿、今度こそ蛙になります』

 拝啓 みんな元気な由。何よりです。
 こちらは、ここ数日来、説明書と首っ引きでテスト中です。実に不親切で難解な説明書だけど、必ず使い切れるようになります。
 そう。携帯電話の件です。誕生日のプレゼント、ありがとう。
 ただ、誕生日のプレゼントとしては、最初は少し奇異に感じました。
 包みを解いて「なんだよ、携帯電話だよ」なんて言ってしまいましたから…。
 すると、おばぁちゃんに訊かれました。
 「携帯電話のプレゼントの意味、わかりますぅ?-」
 正直なところ、首をかしげちゃいました。
 そして、こんな不謹慎な言葉を返してしまいました。ごめんー。
 「携帯電話なんて、ゼロ円なんだろう。眞吾君の名前になっているが、泉美の発案に違いないなぁ。あの娘の考えそうな事だよ」
 ありのままに書くと、まあ、こんな様子でした。ほんとうに、ごめん。だから…。
 「まあ、せっかくの娘夫婦からのプレゼントを…。そんな言い方はないでしょうー」
 おばぁちゃんは頬を膨らませて、さらに付け加えましたね。
 「もう、ずっと以前ですけれど、眞吾さんから、テレホンカードのプレゼントがありましたわよね。覚えていますぅ?」
 「ああ、五枚もあって、中には蛙の絵の付いたカードがあったね。覚えているよ」
 「あの時も、意味がわかっていないようでしたわね。これは、『○○しんきん』のPR用じゃあないのか、なんて蛙の絵のカードを指でピンピンなんて突っついていたのですよ」
 それで、ハッと気付きました。
 毎晩のように遅い帰宅に、〈カエル・コール〉ぐらいはしなさいの意味だったのだねぇ。それで今度は、携帯電話のプレゼント。かなり鈍感でした。改めて感謝の意を表します。
 言い訳ではないけれど、以前に会社からポケットベルを持たされてうんざりした思い出があります。何かに縛られているようで、それ以来電話嫌いになってしまいました。しかし、今はおばぁちゃんと二人暮らし。血圧が高い身だし、心配してくれるのも無理はない。
 皆の暖かい心が籠った携帯電話を大切にします。暫くは、練習メールが頻繁に行くと思うけれど、ご勘弁を…。
 そして、メールを使って孫たちとの会話もできると思うと、楽しくなってきましたね。
 ああー、もちろん。これからは、カエルコールは約束します。ひょっとすると、煩い蛙になって、電話とメール魔になるかもよ。
 冗談はともかく、改めて、お礼を言います。ありがとう。ありがとうー。

 感謝を込めて…、鈍感な親父より

 眞吾様
 泉美様

お義母さんへ 小松 和枝(千葉県佐倉市)

「ありがとう」上手のお義母さんへ

お義母(かあ)さん、お元気ですか。彼岸(あちら)に行った人に「お元気ですか」はないのかもしれませんが、お義母さんが逝って一年半、まだあの肘当て付きの座椅子に座って、サスペンスドラマを見ているような気がします。お義母さんは、自分が三十分前にうどんを食べたのを忘れて、うちの娘(こ)がカップラーメンを食べると「私は朝から何も食べさせてもらえないのに」と叱り飛ばしたり、家に残ったお義父(とう)さんに電話しようとして、自分の家の電話番号を思い出せなかったり、次第にいろんなことを忘れて、家族みんなでバタバタしたのが今ではいい思い出です。そのうち、家族の名前も忘れるかもしれないねと言っていたときに、突然の発病。余命いくばくもないと分かってからは、物忘れさえ愛おしくなりました。
 そんなお義母さんが最期まで忘れなかった言葉が「ありがとう」でしたね。料理下手の私が作るどんな料理も「まあ、おいしそう。ありがとう、ありがとう」と手を合わせていました。症状が重くなり、入院してからも、見舞いに行くたびに「ありがとう、ありがとう」看護士さんたちに手当てをしてもらうたびに「ありがとう、ありがとう」だから、お義母さんは看護士さんたちにかわいがってもらいましたよね。
 人間って、年をとると、いろんなことを失くして、たくさんのことを忘れて、最期の最後にその人の芯というか、根っこっていうか、本質のようなものだけが残るんですね。お義母さんのそれは「ありがとう」だったんですね。人間が意識して身にまとった、作り物の自分を脱ぎ捨てたとき、本当の自分が現れて、それが「ありがとう」だなんて、なんてすてきなことだろうと、本当にうらやましく思いました。私もできればお義母さんのような人間になりたいから、だから今から練習しているんですよ。どんなに小さなことでも、当たり前のことでも、普通が普通であることに「ありがとう」と言える様に。なかなか難しいです。でもうんと、うんと練習しますね。年取って、自分の家の電話番号を忘れても、ご飯を食べたことを忘れても、「ありがとう」の気持ちだけはこの身に残るように。そして、彼岸(そちら)に行ったときにお義母さんに言いたいんです。
「人として一番大切なことを教えてくれて、ありがとう」って。
 まだまだ人間修行の日々が続きます。空の上から応援してください。
 まずは途中経過まで。

 料理下手の嫁より

娘へ 望月 幸子(山梨県甲府市)

娘へ

 幼い日のあなたと十五のあなたへ
 先日ちょっと驚きました。幼いあなたと今のあなたが向き合っていたかと思ったら、心配そうに二人で私を見た後、安心したようにそっと笑ったものですから…。もちろんそれは、私の幻想で、実際には見える筈のない光景でした。
 あれはいつの事だったのか…想い出せないくらい遠い日、私が夕食の仕度をしているとテレビを見ていたらしいあなたが「今度日本で皆既日食があるよ」と言いながら側に来ました。見ると、黄色いメモ用紙には拙い文字で“2009年7月22日、日食”と書いてありました。「随分先の事だね。じゃあ、忘れないように冷蔵庫に貼っておこうか」と言うと、頷いてトウモロコシとクッキーのマグネットでメモを貼ってくれました。
 それから何年も過ぎた今年、皆既日食に日本中が沸き立ちました。でも、当日の天気は曇りと雨で観測は難しいという事が分かり、すっかり諦めていました。前日の夜、いつものように食事の仕度をしていると、あなたが突然「明日日食だね。県立科学館の日食観測に行こうよ。」と言いました。その言葉を聞いた時、黄色いメモ用紙を持った幼い日のあなたの顔が、ぱあっと輝いて「日食みたい!一緒に連れて行って!」と言った気がしました。翌日の予定はいっぱいでしたが、「いいよ。行こうね。」と応えながら、幼い頃の約束をちゃんと覚えていてくれたあなたがとても頼もしくて、本当に嬉しかったです。お鍋の火加減を見るふりをしながら、明日ちょっとでも良いから日食が見れますように…と、胸の中の温かいものが溢れ出てしまわない様にそっと隠しました。
 翌日、甲府の上空はやはり厚い雲で覆われていましたが、それでも祈るような気持でイベントに参加しました。だいぶ時間も過ぎた頃、突然厚い雲が流され、一瞬ですが薄い雲の隙間からはっきりと、まるで三日月の様な太陽を見る事が出来ました。「奇跡が起きた!」と興奮さめやらぬ様子でそれを見つめるあなた。その感激の瞬間に、あなた自身の成長を確信しました。
 先日、私が見た二人のあなたは、あなたの成長の証しとあなたの変わらぬ姿だったのですね。幼い頃の真っ直ぐな気持のまま、人を思いやる心も育ったこと嬉しく思います。そしてそれは、たぶん、あなたを取り巻くすべての人たちのおかげだと分かっています。
 薄ぼんやりと輝く三日月のような太陽を見ながら、あなたと、あなたに関わるすべての人のこれからに、幸福な陽光が降りそそぐことを願っています。
 あなたと、あなたの周りの人々に心より感謝を込めて。

祖母へ 清水 明日香(東京都世田谷区)

拝啓 おばあさま

 秋風立ちこめ、過ごしやすい季節となりました。いかがお過ごしでしょうか?
 先日、お伺いに参りました折、御足が痛むとおっしゃられましたね。秋の、あのお寺の紅葉を、見に行かれないかもしれないと。
 おばあさまがあちらへ一年に一回、必ず紅葉を見に行かれているのは、私も昔から知っております。ですが、どのようなお心持ちで通われているかまで、恥ずかしながら存じませんでした。
 ご存知のとおり、私は生まれつき足に不具がございます。昔の事ですので、詳しいことは分かりませんが、歩けるかどうか危ぶまれたほどのものだったそうですね。
 おばあさま。おばあさまは私の生まれたその日に、母を叱ってくださったそうですね。こんな孫を産んだお怒りではなく、生まれてきた子を祝福出来ず、落ち込む母の、弱い心を。
 ありがとうございます。それからというもの、母は一生懸命に勉強をしたと申しておりました。どのような症状が出て、どうすれば完治する事が出来るのか。
 おかげさまで、私は今、走る事も、跳ぶ事も出来ます。(母にもお礼を言わなければいけませんね。)
 ですが、足の事を心配され、一心に祈ってくださった方は他にもいたと、先日、母から伺いました。
 いつも秋にお参りされます、あちらのお寺。あそこへは、紅葉をご覧になる為だけに、通っているのだとばかり思っていました。
 おばあさまは、私の足の事をお祈りしてもらうため、足しげく、あちらのお寺に通われていたのですね。その事を聞き、私は胸がじんと熱くなりました。
 おばあさま。どうぞこの秋は、ご自身の為にゆっくりお休みください。その代わり、お寺には私が伺います。
 おばあさまの御足の事はもちろん、お参りの際、たくさんの紅葉の写真を撮ろうと考えております。
そうです。次のお手紙と一緒に、たくさんの紅葉をお見せ出来ますでしょう。
 まだまだ未熟な私ですが、どうぞこれからも様々な事をご指導いただけますよう、よろしくお願いいたします。
 まずは季節のごあいさつまで。

 かしこ

妹へ 山本 兼大(石川県金沢市)

妹へ

いつもけんかばっかりで言えない事が一つある。いつもそばにいてくれてありがとう。家でけんかしたり協力したり、いろいろな事がありました。
 あなたがせいご1・2ヶ月の時にぼくのかぜがうつってしまいましたね。その上、そのせいで命もあぶなくなってしまったそうですね。その時はすいません。それと、生きていてくれてありがとう。
ぼくは少ししか「ありがとう」と思われるような事をしてやれなかった。ぼくは、何をしてやったらいいのだろうか?ぼくは、うれしそうにしてくれる事をしてやりたいけど、何をしてやればうれしいかわからない。そう思いながら買い物へ出かけました。まだ思いながらいくとおかし売り場があって、高いけどこれにしようと思って買ってあげました。そうすると妹は大よろこび。よくえらんで、高い物をえらんだかいがあったと思いました。これからも少ないと思うけど、買ってあげたいと思いました。
 ほかにクリスマスの時にちょっとした、ほしがってた物を買ってあげました。するとこれまた大よろこび。「ありがとう」と言われて少してれてしまいました。でも、とてもうれしいきもちになってしまいました。
 あなたには、ぼくはすきな事をしてほしいと思う。無理にこれをしろ、あれをしろと言うと、しょうらいの夢がかってに決められてしまうから、すきな事をしてほしいと思う。畑をつぐのは、ぼくに任せてほしいと思う。ぼくの方がさきに大人になるからだ。ほかにぼくは男だし、ひぃおばあちゃんやお母さんなどから畑をつげと言われている。だからぼくが畑をついでいくから安心して好きな事をしてほしいと思います。
 お母さんから聞きました。あなたは、ぼくがいない時は「お兄ちゃんが」「お兄ちゃんに」と、ぼくの事ばかり言っているそうですね。あなたがいない時はぼくがさびしいように、ぼくがいない時はあなたがさびしいのですね。そんなあなたがとてもかわいく思えてきました。
 これからもケンカばかりだけどすぐに仲直りしようね。
さいごに一言「ありがとう。」

トーベ・ヤンソンさんへ 平本 美保(静岡県伊東市)

 天国のトーベ・ヤンソンさん、あなたが旅立たれてからもう八年が過ぎようとしていますが、あなたが生み育てた「ムーミン」キャラクター達は、今も世界中の人々に愛されています。
 私がムーミン達と出会ったのは小学校六年生の時、学校の図書室に置いてあった一冊のムーミン童話からでした。正直言って、小学生が読むにはムーミン童話は長く、何とも意味がつかみきれず、どう言い表したらよいのかわからないけれど、不思議な雰囲気を持った物語でした。その雰囲気にひかれ、その後もムーミン童話を一冊また一冊と、読み進めてゆくことになったのです。
 やがて私も中学生になり、高校生へと成長するに従って、誰しもが直面する思春期の危機を迎えました。自分がいやになり、内面の葛藤が始まり、他の人と対立し、社会はなんて矛盾に満ちているのだろうと感じ、生きる気力を失いかけました。その時やっと、私はムーミン童話が内包していることがらを、意識できるようになってきたのです。
 それは、この世に生きるものの喜びと哀しみ、愛情や友情に背反する孤独とせつなさ、そしてそれらを乗り越えて獲得できる真の心の自由。私は、そのようなさまざまな感情の中で揺れ動きながら、一生懸命に生活してゆくムーミン谷のキャラクター達に、共感を覚えてゆけるようになりました。
 そして来る者を拒まず、起こってくる事態を受け入れながら、ユーモアを忘れずに生きるムーミン達の存在は、私に生きることへの希望を与えてくれるようになったのです。
 ヤンソンさん、あなたが北欧で書き綴った物語が、極東の一人の少女の魂を救うとは、あなたには思いもよらなかったことかもしれません。けれどムーミン童話が書かれて半世紀以上たった今でも、あなたの作品が世界中で読み継がれているということは、きっと私と同じように感じ取る人が多いからだと思います。
 私がムーミン童話に触れてから三十年あまりがたとうとしていますが、私は今、一九五四年からロンドンの「イヴニング・ニュース」紙に連載されたムーミン・コミックスを読んでいます。ムーミンキャラクター達の姿やその背景が、あなたの手に握られたペン先から一本一本描き出されたものだと思うと、とてもいとおしくて、おいしいチョコレートを惜しみ惜しみ少しずつかじるように、大切に読み進めています。
 それから、先日、となりの街のある保養施設に昼食を取りに寄ったところ、出された紙コースターと箸袋にムーミンキャラクター達の姿が印刷されていたのです。ムーミン達がムーミン屋敷を訪れる誰をも温かくもてなすように、この保養施設もおもてなしの心を、ムーミンキャラクターに託しているのでしょう。
 こんな素敵なプレゼントをこの世に残してくれたヤンソンさん。あなたに心から感謝を伝えます。

登下校の子供たちへ 涌田 哲也(奈良県大和高田市)

「こちらこそ、ありがとう」

 きみたちと出会ってから、もう何年になるだろうね。
 停年をむかえてまもなく、なにか世の中にお返し出来ることはないかしら…と柄にもなく考えて「地域の子どもたちの安全」を目指して立ち上がって、かれこれ十二年にもなるかな?
 登・下校時に車の往来が激しい信号のない十字路で、暑い日や寒い日、また、雨の日も風の日も、私はきみたちの安全をひたすら願いながら「立哨(りっしょう)」をつづけたのです。
 世間の人たちが愚か者呼ばわりしていたことなどは百も承知でしたが、愛らしいきみたち子どもが笑顔で通っていく姿を目にしていると、心ない世間の口など意に介さなくなっていく自分が不思議でした。
 でも、正直言って幾度かは「もう止そう…」なんて思ったときもありましたよ。
 そんなくじけそうになる私を勇気づけ、励ましてくれたのは小さく可愛いきみたちの笑顔だったのです。
 そして、いつの間にか「立哨(りっしょう)」は私にとっての人生終盤の大事業にまでなってしまいました。ちょっと大袈裟かな?
 普段、何気なく道を歩いているときに若者が明るい声で挨拶をして通り過ぎることがよくあります。ずっと以前に登・下校時に出会っていた少年が、見上げるような立派な若者に成長して声をかけていってくれるのです。
―――続けてきて…よかった―――と、心底からそう思うのですよ。いろんな出来事もあった十二年でしたけど…。
 「たかが立哨(りっしょう)」と他人(ひと)は言うでしょうが、私には「されど立哨(りっしょう)」なのです。
 最近では地域住人も子どもの「安全」に力を貸してくれるようになりましたが、よくよく考えてみると本当に大変な歳月でしたね。
 七十三歳を目前に控えたこの頃になって思うのは、あとどれくらい続けられるかな…ということで、少々心細くなるときもありますが、病気ひとつしないで毎日を送っているのは、きっときみたちのやさしい笑顔に勇気づけられてきたおかげでしょう。
 きみたちはいつも私に向かって「ありがとう!!」と言ってくれます。
 でも、こんなに達者で幸せでいられる私の方こそ、きみたちに言わなければならないのだと思います。
 「こちらこそ、本当にありがとう」とね。

お客さまへ 二宮 基陽(大分県大分市)

三郎さんへ

 三郎さんとの出会いは今も覚えています。私は毎日、信用金庫の9番カウンターで融資の窓口に座っています。毎日、いろんなお客さんが来ます。そんなある日に、三郎さんのお兄さんが私の名刺を持って訪ねて来られました。
 一緒に三郎さんの通帳を持参されていたのですが、三郎さんとは違う方で、三郎さんのお兄さんでした。「どうしたのですか?」と私が問いかけると、「実は三郎は亡くなりまして、昨日葬儀が終わったので、遺品の中から通帳とそれにあなたの名刺が入っていたので、あなたを訪ねて解約手続きに来ました。」とのこと。この事実を聞いて、私は目の前が真っ暗になりました。私は、三郎さんのことが大好きだったんですよ。年金受給日である偶数月の15日は必ず9番カウンターに来て、出金されて帰ります。一番最初に来られたのは、今年に入ってから。当金庫のF店が廃止になったので、その次に近かった当店に来店されました。 初めて来られた時の印象はまだ覚えていますよ。「このF店の通帳はまだ使えますか?」と質問され、私が「大丈夫ですよ。」と答えると、「安心しました。私はお金のことは全く分からないので、とても心配でした。これからも来ますので。」と言って、ふかぶかとお辞儀をされて帰られましたよね。それから、出金やその他の用事をされるために来店されるようになりましたよね。口癖に「私は何も分からんです、あなたが頼りです。」とよく言われてましたね。出金された後は、大きな財布に通帳や書類を几帳面にしまわれて、その財布をカバンの一番下に「無くさないようにせんといかんですから。」と言いながら、しまう姿が、とても愛おしく思えていました。
 また、通帳を入れているケースに私の名刺を大事にしまわれて、「これは私の宝物ですけん、大事にします。」と言っていただけることが、私にとってどれだけうれしかったか。。。。
 実は、私は今月来店されることを楽しみにしてたんですよ。
 私自身、最近つらいことが多くて、三郎さんと話すと元気になるかなっと思って、来店されるのをお待ちしてたんですよ。
 そして、その名刺が私の手元にあります。
 お兄さんが帰られた後、名刺が私のカウンターに残っていました。
 私はその自分の名刺の裏に、三郎さんに渡した名刺であったこと、三郎さんが私の名刺を宝物であったといってくれたこと等の思い出を記入し、大事に自分の机にしまいました。私にとってこの名刺は宝物です。
 きっと、私が9番カウンターに座っている間、苦しい時や辛い時に引き出し、開けてみるつもりでです。
 きっと心が温かくなれる気がしますので…

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