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まちのえがお賞
かつての仕事仲間?へ S.K(秋田県)

拝敬
お元気ですか?。まずは、君の安否を確認してお便り申し上げます。安否を何ていうと変かも知れませんが、君のことを思うと何となくそういう風に思ってみたくなってくる。
私が君という人間を知ったのは、もう遠い昔になってしまったけれど、心の中で君のことが思い出されてしまう。それ程に、君の印象が強かったからである 。私は当時、違う世界に生きている人たちに出会って、仕事をする様になっていた。そんな自分を明るく励ましてくれた事が私を支えた。小人数の小さな会社では有ったけれど楽しかった事を記憶している。そして、しばうくして君の仕事を半分伝うように成っていた私は、いつの間にか口が聞ける様になっていた。それが次弟に笑いに変って行き、自然とやる気が出てきたものであった。田舎育ちの私には、何んの取柄も無かったけれど、とても励みになったものである。仕事は重い荷物を肩にかついで、お得意さんに降ろすので有った訳だが、君は男まさりのする女性、軽々とかついではテキパキと仕事をこなし「あれでも女か?」と回りの男たちをおどろかしていたね!。君はいつか私にいった。「私は、苦労するのが好きで汗をたっぷりかくのがいいと。」実際、君はタオルを首にかけて汗をふいていたのを私は覚えている。君は仕事を終えると、大酒呑みだった所がある割にはさっぱりとしていて後くされかなく、その性格が好かれ、男友だちが多かった。そういう意味では、あねご肌だった。君より年が上の私は、そんな君がうらやましく思えた程で有った。何よりも近くに友だちがいて、いろんなこと(悩みや、心配事)を話せる、聞いてくれるというのはとても良いことである。君はその男まさりの性格が由に女としての悩みも有ったに違いない。私は当時を振り返って、そう思っている君は、社長とケンカをして会社を辞めていいった訳だが、そこにも男まさりの性格が出ていたね。私か君の事を思い出す時、あねご肌のことではない。君という人に出合い、暗くなっていた自分を明るく励ましてくれ勇気をもらったことである。君と一緒「会社」に居た時間、楽しく仕事が出きたことである。
その後、君とは二回程会い、お茶を飲んだことがあった。それ以来、君とは疎遠になってしまったけれど、自分を明るく励ましてくれた君を思い、ありがとうの一言を、この手紙に記します。
敬且

亡母へ Y.M(宮城県)

月日の経つのは本当に早いものですね。95歳の誕生日を目前にしながら黄泉の国へと旅立った母さん。多くの孫や子供達に見送られ本当に安らかな顔でした。今頃父さんと二人で何をして過ごされていますか。

いまから50年も前の話になりますね。母さんはよく「他所様と違って、うちには何も財産が無い。だからしっかり勉強を」と喩してくれました。三男坊だった私は学校が嫌いで成績も悪く、そのくせいつも何かと反抗的な態度を示す手のかかる息子でした。それでも母さんは苦しい家計を遣り繰りして私達四人の子供を大学に進学させてくれました。当時は高校に進学させるだけでも大変だったはず。「大学の免状(卒業証書)一枚は、田畑一枚(1haのこと)よりずっと大きく広い」「世の中には一生懸命頑張っても報われないものもあろう。でも勉強だけは例外だ。いつの日か必ず報われる」。母さんの口癖でしたね。
すばらしい先見の明です。努力の大切さを説いてくれました。元々勉強が苦手だった私ですが母さんのお陰で何とか地方の国立大学に合格することが出来ました。一浪の後に。
私は都会の私立大に入学したかったのですが、下に弟もいますし、当時の財政状態ではとても無理な相談でした。不本意なまま入学したので全然勉強もせず、親の目が届かないのを良い事に、毎日遊んで暮らしていました。家計を切り詰めて送金してくれた母さん、今思えば本当に親不孝な息子でした。涙が出て来てしまいます。「母さんは何も要らないし、欲しくもない」「ただ真面目に大学に行ってくれればいい」。 母さんからの手紙にはいつもこれらの文言が載っていましたね。
みんなの期待に一度も答えることなく私は無事(?)大学を卒業し、地元に戻って高校の教師となりました。幸いにも当時は、現在では到底考えられない程、教員への道は広き門でした。それでも母さんは私の就職を赤飯を炊いて祝ってくれましたね。

五年前私は定年を迎え教壇を降りました。第二の職場の帰り道、母さんを訪ねました。年を取っても矍鑠としている姿に感動を覚えた程です。二人で茶を飲みながら「母さんはどうして、あんなにまで息子達の教育にこだわったの?」訝る三男坊に微笑しながら答えました。「兄弟間に社会的・経済的な格差だけは生ませたくなかったから」と。
私はこの年齢になって始めて母の子育てが分かりました。着たい物、見たい物、食べたい物、行きたい所、全てを我慢してまで私たちを育ててくれたのですね。他の兄弟と違って心配ばかり掛けてきた私です。何も言わずに黙って容認してくれた父さんも凄いと思います。私は何も言うことが出来ませんでした。ただ心の中で「父さん、母さん本当にありがとう」と叫んでいました。これからもずっと二人で天国から私達を見守っていて下さい。

亡母へ N.H(新潟県)

お母さんへ
お母さん、今日はお母さんの「生誕百五年」の日です。お母さんが二十年前八十五歳で亡くなられてから、私はお母さんの誕生日をいつも「生誕」でお祝いをしています。
十日前、私は七十四歳になりました。私の誕生は大変な難産だったそうで、本家のお祖母様は、隣室で母子共の出産の無事を近郷の有名な子育て地蔵尊に祈り、お母さんもその地蔵尊を念じ続けて出産されたとか。そして無事に生まれた私を、生後百日目に伴って、その地蔵尊に「お礼参り」をされたと。このお話を若い頃にお聞きして、お祖母様、お母さんの思いに背いてはいけないと真剣に思ったものです。その思いは「年を重ねるごとに深くなって…」でした。
お母さんは、私が妊娠した時にも多忙の私に代わって、その地蔵尊をお参りし、お札を届けて下さいました。私が3人の子供達を無事に出産できたのもそのお陰と思っております。素朴かも知れませんが、命は、お祖母さんからお母さんへ、私から私の子供達へ、神仏のお力も加わって育まれ、重く尊いことを知らされ、命の大切さの原点を教えて頂きました。本当に感謝一杯です。
お母さんは、終生、家庭の主婦の道を歩まれましたが、物の考え方は、狭い家庭に止まらず、広くおおらかでした。穏やかではありましたが、自分の考えや思いを静かに語って下さり、説教がましい言い方はないのですが、後々、納得できることが多々ありました。今でも思い出すことの一つに「海」の3番の歌詞「ウミニ オフネヲ ウカバシテ、イッテ  ミタイナ、ヨソノクニ、」を小学一年の弟と歌っていた時、「よそのくに」に、アメリカの国を話して下さいました。その頃日米間はすでに戦闘状態でアメリカを敵国呼ばわりし、アメリカ大陸を口にするのも憚られた時代でしたのに。それに、海を隔てた国と言えば、「満州」を考える程度の小学生の知識に、それは途方もない説明でした。しかし、大戦が終わって、アメリカとの交流が始まり、アメリカを旅行した時、お母さんの説明が忽然と甦ってきて、小学生の頃に大きな世界を与えて下さったお話に感嘆したのでした。
歌唱の好きだったお母さん!
家事をしながらいつも歌を口ずさんでおられましたが、それらの中でも「金剛石もみがかずば 珠のひかりはそはざらむ 人もまなびてのちにこそ まことの徳はあらはるれ……」が、お好きなようでした。この頃、私もその歌を口ずさみつつ、お母さんは、私の偉大な師だったと、振り返っております。
今日の「生誕の日」に、私の残り少ない道を、お母さんをお手本に歩みたいとあらためて思っております。お母さん、本当にありがとう。

漁師へ R.T(石川県)

漁師さん
今、ガソリンの値上げが続いている中で今も漁師達が漁をやってくれているから魚が食べられるのだと思う。船のガソリンは車のガソリンより何十倍だと思う。車のガソリンでも満タンにすると六千円から一万円します。船だと多分何十万位すると思います。でも漁師の人達はみんながんばっています。やめないでがんばってくれているからちゃんと魚もいくらも食べられると思う。そんな漁師さん達に何もして上げないなんてかわいそうだなーと思います。せめて魚などの海類を食べさせてもらっているのだから、県・国からガソリン代を上げてもいいと思うな。でもそんなのはなかなか無理だ。でもせめて、せめてなにかをやって上げてもいいなと思う。それかガソリン値下げをしてもらいたい。自分達はなにも漁とかしてないからニュースとかで値上げした、とか船のガソリンが高いから漁が出来ないとかしてても右から左だと思うけど、漁師の人達から見たらやな話だと思う。ガソリンのえいきょうで漁をやめてしまった人、休んでいる人などは、何をしていけばいいのか分からないと思う。なにもしてないのにどうして自分の仕事を手放さなければいけないのか私には分からない。社会というものはみんなが知っているよりもなにがあるか分からない。むしろ知らない。なんでガソリンの値上げがはじまったのか、どうして今値上げするのか分からない。な。政府は車に乗っている人、船、バスなどガソリンが必要な車などのことを考えてくれているのかな。でも漁師の人達は精一杯がんばってくれていると思う。私は今改めて思った。魚を食べられることは幸せなことだな漁師たちがいなかったら食べられないんだな。漁師の人達本当に、本当にありがとう。感謝の心でこれからもお願いします。

息子へ M.S(群馬県)

裕幸さんよ、お前さんは二十年間かかさず結婚記念日に、花束を妻君に贈っていると言ったね。たいしたもんだ愛妻家だね、私は一度も花なんか贈ったことがない。するとお前さんは「おやじ、今度の結婚記念日におふくろに花束を贈ってみたら、女は花には弱いからね、きっとおやじを見直すと思うよ」と言ったね。
そこで今年は結婚四十五周年になるので、思いきって実行することにしたよ。当日、花屋の店先を行ったり来たりして、心を決めて店に入り「花束を・・・」とのど元まで出かかったのをのみこんで、店頭の小さな花にみとれて、これとこれとこれを下さい、と指さして買ったよ。
花屋の主人が、赤、白、黄色のかわいらしい小鉢を台の上に乗せて「何にお使いになりますか」と尋ねるので、私は慌てて「お、お祝いに・・・結婚式の」と答えると、店主は丸い下げ篭の中に鉢を手際よく並べ、紅白のリボンを彩りに添えてくれましたよ。
私は帰宅すると、玄関にその花篭を置いて、そのまま何も言わずじまい。“結婚記念日のお祝いに”などということは、照れくさいし、七十二歳になって気恥ずかしいからね。
翌朝、おかあさんと近所の奥さんとの会話が聞こえました。それは玄関の飾台にある花篭を褒める奥さんに何のためらいもなく「主人が結婚記念日に贈ってくれたもの。かわいいでしょう」と言ってケラケラと笑っていた。 それから数日後、おかあさんはこの小花が根腐れしないようにと、丹念に鉢分けをして、毎日せっせと水くれをしていたよ。
あれから二ヵ月も経過したのに赤い花、白い花、黄色い花がまだ咲いている。玄関口に一つ、私の机の上に一つ、居間のテレビの上に一つ。わが家のどこにでも「記念日」の名残りが目について嬉しかった。
それを眺めながら、夫婦同士はその三色の花についてはいっさい語らず、また、お互いに言いそびれてしまったよ。心の中では“お正月まで花を咲かせていておくれ”と願っていたよ。
裕幸さんよ、お前さんのアドバイスで私は生まれてはじめて、お前のおふくろさんに花を贈ることができた。花を買う勇気ときっかけを、与えてくれてありがとう。せんだって私のワイシャツのボタン付けをしながら、皮肉をまじえて「おとうさんから針金ももらったこともないのに、素適な贈り物ありがとう」だってさ、針金というのは結婚指輪のことなんだ。欲しかったんだねえ・・・。
二人が結ばれた頃は貧乏だったから食うことが精一ぱい、苦労のかけっぱなしさ。せめて結婚五十周年・金婚式はささやかながら針金と花の小鉢を贈るつもりだ。ところでお前さんのことだ、妻君には毎年花束を贈るんだろう。感心するよなあ、いい夫婦だ、なあ裕幸さん、そこで来年の結婚記念日には花束よりも、根のついた花の小鉢の方がいいと思うよ。長持ちするからね。
おやじより。

題名「針金と花の小鉢」

近所の人へ M.O(東京都)

田村さん、お勤め御苦労様です。定年後も働いていらっしゃる、その姿に頭が下がります。私達、夫婦は、またチコ(チワワとダックスのミックス犬)をお借りしました。
我が家から徒歩十分ほどの所にある、田村さんのお宅。ちぎれんばかりに尾を振り、チコが迎えてくれます。「散歩」と声をかけると、ピョンピョン跳ね、全身で喜びを表すのです。散歩が大好きなチコ。
チコに出逢って、ほぼ一年。「可愛い犬がいるの」と知人に紹介されたのがきっかけでした。
何回か吠えられて。でも、私が犬好きとわかったのでしょう。間もなくいろいろな仕草で甘えるようになったのです。「抱っこ」と言うと、前足を私の左腕にかけます。そして、お尻をちょこんと上げ、抱きやすいポーズをとってくれるのです。こんな犬は初めて。「気を遣わなくていいのよ」と言わずにはいられません。
午前中は、近所の方が散歩に連れて行きます。やはり、犬が大好きで、最近まで飼っていたそうです。でも、愛犬は年老いて、天国に旅立ってしまいました。その方と一緒に歩きましたが、チコを大切に扱っている様子が、手に取るようにわかります。
 ある日のこと、とてもラッキーなことが起こりました。「いつでも散歩をどうぞ」と田村さんが言って下さったのです。チコと散歩ができる。まるで夢のよう。でも、大切な命です。何かあったら大変。心して臨まなければ ……。
散歩していると、「あっ、チコちゃん」とか、「チコですよね」などと声をかけられます。
そのたびに笑顔(?)で応えるチコ。チコは散歩コースの人気者です。
とはいえ、我を張り、動こうとしないことがあります。そんなときは「もうすぐ、お母さんが帰って来るでしょ」と声をかけます。
田村さんがチコに対し、御自分のことを「お母さん」と言っているのを聞いていましたから。一目散に走り出すチコ。そんな姿を見ていると、飼い主にはかなわないと思ったものです。
そのことをお話したことがありました。すると田村さんは目を細め、微笑んでいました。
とても幸せそうでした。
犬にはあまり興味のなかった主人。が、最近、チコのことを話さない日はないくらいです。おかげで楽しいひとときを過ごしています。何とお礼を申し上げてよいかわかりません。やはり、「ありがとうございます」が一番ですね。
チコは二歳。ひとり暮らしの田村さんは、私より少し年上。なのに、私よりもずっと元気。うらやましい限りです。でも、お体には気をつけて。
一つだけお願いがあります。チコよりも長生きして下さいー可愛いチコのために。

教え子へ R.K(神奈川県)

ねぇ、みんな本当にありがとう。「ありがとう。」この言葉は自分が言っても相手に言われても胸が温かくなるよね。たったの五文字なのに中身が詰まった素敵な言葉だよね。そんなことを強く感じることができたのが、教育実習でのみんなとの出会いでした。不安ばかりを抱えて迎えた実習を最後までやり切ることができたのは、あなたたちの笑顔が溢れていたからです。まだまだ未熟な私を真っ直ぐ正面から受け入れてくれましたね。私の不安そうな姿に「大丈夫だよ。」と語りかけるような笑顔をプレゼントしてくれましたね。指導教諭に怒られたり、教職員に厳しい指導を受けたり、自分の未熟さを痛感したりなど、逃げ出したくなるような日もありました。しかし、どんなに辛いことや悔しいことがあった時も、あなたたちは私の味方で居てくれたね。どんな時も笑顔で迎えてくれたね。それがどれだけ私を支えてくれたかは言葉では言い表せられない程です。表現するとするならば、「大好き。」と叫んで抱きしめたくなるような想いでした。実習中に何度も「ありがとう。」と言ってくれたね。私は何もできなかったのに、何もしてあげられなかったのに、あなたたちに助けてもらってばかりの日々だったのに。どんな時も私を先生として見てくれ、接してくれたあなたたち、私を何の抵抗もなく自分たちの輪に入れてくれたあなたたち、私の「ありがとう。」の気持ちに応えてくれたあなたたちに、心から「ありがとう。」を伝えたいです。一緒に給食を食べたこと、音楽の授業で歌ったり躍ったりしたこと、休み時間に本気で鬼ごっこをしたり、ドッヂボールをしたこと、田植えで泥だらけになって笑って騒いだこと、あなたたちの記憶にどれだけ私との思い出が残っているでしょうか。欲張りなことを言えば、全部忘れないで欲しいです。ずっとずっと覚えていて欲しいです。「ありがとう。」この偉大な五文字で、出会った全ての児童たちと、ずっとずっと繋っていられますように。そんな願いを、この五文字に託します。ありがとう。

姉へ H.T(岐阜県)

姉へ
最近、全く顔を見ていないけど元気にしているのかな。あなたが家を出てから、毎朝、出勤前の洗面所争いが無くなりました。前はあんなに嫌だったのに、自分一人だったらと何度も思ったのに、今、現実にそうなってみると何だか物足りなくて、少し寂しくて。
今、思い返せば四人兄弟の中で一番話をしたのはあなたかもしれない。あなたは一番年上で、兄弟みんなのお手本で、女なのに男らしくて、小さい自分はあなたを真似して、いつもあなたの後をついて歩いていたね。だって、それだけあなたはカッコ良かったから。
大きくなると、あなたとはあまり話さなくなったね。自分は学校から帰るとすぐ自分の部屋に閉じこもり。あなたは将来に向けて自分を磨いていたね。特にやりたい事もなく、なりたい物も無かった自分は、楽しそうにピアノの練習をしているあなたを見て、うらやましくて、少しくやしくて。
大人になり、社会人になるとあなたとは微妙な関係に、なぜなら自分があなたの後輩になってしまったから。それからのあなたは自分にとっての相談役、やっぱりあなたは頼りになります。
そんな中始まったのが朝の洗面所争い、職場が同じと言う事は出勤時間もほとんど同じと言う訳で、あなたとは毎日火花を散らしたね。どちらかが少し早く起きればすむ事なのに。
こうして振り返ってみると、自分にとってあなたは大きな存在だったのだと気づかされます。日常の何気ない会話や、ちょっとしたケンカが実はとても楽しくて、実はとても貴重だったという事に。
あなたが家を出て、四人いた兄弟は自分と弟の二人だけになりました。今度は自分が弟にとっての大きな存在にならないと。はっきり言って自信ないです。弟とは口ゲンカばかり、間違っても何でも相談できるとても頼りになる兄ではない事は確かです。でも、いつか弟に自分の存在は大きかったと言わせられるように、自分らしく接していこうかなと思います、あなたの様に。
お姉ちゃん結婚おめでとう。
そして今までありがとう。

亡母へ T.N(愛知県)

母よありがとう
九十七才の死を迎えるその時まで、娘の行く末を案じてくれた母よ。何と尊い心か。
ー“日々滅びゆく愛しい母、この世はもうそれっきり”と歌った詩人のように『胡桃を割る人』より 財部鳥子 ー
戦い終った耐乏の日々の生活、育ち盛りのはらからを無心にはぐくみ三百六十五日、温かな心でおべん当をつくりつづけ、尊い犠牲のもとに、美しさもやさしさもその心をつないで下さった母よ。
どんな素晴らしい人に出会っても、優しい心の人に会っても母を越えるものはない。
母となった日から母よあなたは悟ったのだ子供達えの無限の愛に生きることを。
神の如き愛と、佛の如き慈悲とを、献身とも思わずひたすら無償の愛に生き献身した生涯であったろう。
母在りてこそ今、私の命がつながれている命には限りあれど、その心を受けついで深い温かい心を人々につないでゆけるよう、無限にひろがり永遠につないでゆけるよう、心は目には見えないけれど愛が形となって育くまれ続けてゆく。
あなたは家族制度、封建制の厳しい田舎の大家族の中に嫁いで、筆舌に尽きない労苦の間、周囲に心を砕きつつ、明るく子供達を育て、朝は早くから夜は皆が寝しづまる迄、縫い物やつぎ物、そして毎夜欠かすことのなかった黒表紙の家計簿を、生涯の間、一体何十冊になったであろうか。その中には家族一人一人の歴史が、いや母自身の歴史過ぎ来し方のよろこびや悲しみの思い出が一杯一杯刻まれていたのではなかろうか。
激動の厳しかった戦中戦后を、不自由とも言わず子供達に充二分に与え尽してくれた人
戦いのさなかに、夫を戦地に送り、一人糧を求めて買い出しに行き心強く泪すらなく、本当に母在りてこそと豊かな心で過した日々
母の年令に近づくに従って、カレーもサラダも、お寿司もみんな母の味になってしまっていることにふっと気づく。
台処に立つ母の和服のうしろ姿、白い割烹着でふくやかな手を指をぬぐっていたなつかしい母。
母は真剣に生きた人だった。九十七才まであと一週間で九十八才というその日まで、体操にお散歩に花づくりにと、己をムチ打つように皆に迷惑を掛けないようにと、一人を生き抜いた。寂しかったのではなかったか。ひしひしと孤独感をしのび耐えていたのではなかったか。
母在りてこそ、母よありがとう。

父母へ A.F(京都府)

お父さん、お母さんへ
お父さん、お母さんごめんなさい。
高校生のとき、お父さんが単身赴任なのをいいことに夜遊びをしまくっていた。お母さんがお父さんにバレないように隠してくれていたの知ってたよ。それなのにお母さんの言うことに耳を傾けず、お父さんが私ではなくお母さんに怒っていたのも知っていたのに見てみぬふりをしていた。お母さんやさしくできなくてごめんなさい。
大学生になってからは、学校も行かずにアルバイトをして遊んでばかりいた。四年間の私立の学費は大変だっただろうにごめんなさい。
二十一歳の時、彼氏と同棲したくて家を飛び出した。お母さんと一緒にいたくないなんて言ってごめんなさい。お母さんを一人にしてごめんなさい。お母さんも寂しかったんだよね。
葬儀屋に就職が決まった時、お父さんは私が決めたことだからと言って何も言わなかったけど、本当は周りの人や親戚中に娘にそんな仕事させるのを許したのかって責められていたんだね。何も知らなくてごめんなさい。
二十五歳の時、不倫しているのがバレた。
必死で私の事考えて心配してくれていたのに、私さえよければいい、ほっといてなんて言ってごめんなさい。お母さん毎日泣いてたね。
お父さんも冷静に話をしようとしてくれていたのに、ずっと単身赴任でほったらかしだったくせになんていってごめんなさい。本当は自分でも分かっていたよ。意地を張ってただけ。寂しかっただけ。心配かけてごめんなさい。お父さんはちゃんと毎日お昼休みにメールを送ってきてくれてたのに無視してばかりでごめんなさい。
お父さんが私に言った言葉、今でも忘れません。
「お父さんもお母さんもいつもお前の事を考えてる。お前の幸せだけを考えてる。その親の気持ちを少しでもいいからわかってくれ。とは言っても、親になるまでは一生わからないだろうけどな。」
自分ひとりで大きくなったような気がしてたけど、私はお父さんお母さんに甘えっぱなしだった。お父さんお母さんのこと全然考えていなかった。私はもうすぐやっとお嫁にいきます。お父さんにもお母さんにも自信をもって紹介できる人を見つけたよ。
今まで本当にたくさんごめんなさい。
これからもまだ心配かけるかもしれないけど、ずっとお父さんとお母さんの子供だもん。仕方ないよね。でもこれからは、私が二人のこと一杯考えて大事にするよ。私、必ず幸せになるから許してくれる?
私も家族を作って親になったら、お父さんの言っていたこともっとわかるようになるかな。それまでまだまだ見守っていてね。
お父さん、お母さんこれからはたくさんありがとうを言うね。
ありがとう。大好きだよ。

隣のおじいさんへ R.H(広島県)

となりの家のおじいちゃんへ。
いつも、おかしをくれてありがとうございます。ひっこしてきたときは、すごくこわいおじいちゃんだなあって思っていました。でもなぜか、いつのまにか仲よくなっていましたね。おじいちゃんは、なんでもつくってくれました。本だなや、小さいいす、小さいつくえなどたくさんありがとうございました。私も、本でなにかをつくることは好きで、いっしょにつくらせてくれてありがとうございました。今でも、大切につかっています。
さいごに、おじいちゃんは、よくこのマンションの全部(公園と中庭と、駐車場と、駐輪場)をキレイに、ほうきではいたり、草むしりをしたり、マンションじゃないけど近くの歩道のおちばをはいたりなど、毎日のように、そうじをしている姿を見ます。そして、私は、おじいちゃんと2人で、公園などをそうじしたとき、とても大変なことだと思いました。あつい中での草むしり、汗もすごいかきました。こしもいたくなるし。そんな大変なことを毎日するなんて、私には、ぜったいにできないと思います。それからです。私はおじいちゃんが少しでも楽にそうじできるように、気づいた特は、自分から、少しでもそうじをしようと思いはじめました。そうすると、私の家の前もキレイにたもてるようになり、家の中も、キレイになりました。私は思いました。そうじをすることは、とても大変だけど、キレイになると、心もきもちよくなるし、そして、そうじは楽しいと思いました。おじいちゃんは、私に、そうじをする本当の楽しさをおしえてくれました。こうやって、1人1人が少しでもそうじをするともっとマンションがキレイになります。そのために私もがんばります。なので、おじいちゃんも、体がつかれないように、少しずつ、少しずつ、がんばってください。2人でがんばりましょう。私に、そうじをする楽しさをおしえてくれて、ありがとうございました。

駅前の佐藤さんへ R.N(山口県)

駅前の佐藤さんへ
前略、お変わりございませんか?よくお会いするのに、駅前の佐藤さん、ということしかわからなくて・‥。けれど、どうしても謝りたく、この手紙を書いています。突然の便りをどうかお許し下さい。ーあの日、(といっても、覚えていらっしゃらないと思いますが)私はささくれていました。やけくそ、ともいいましょうか。精一杯取り組んだ試験に落ち、家族に当たり、職場ではミスを重ね・・・。ダメだなぁ私、とため息をつく一方で、何もかも嫌だ、とイライライライラ。駅に降りると、オレンジ色の夕日がいつもよりまぶしくて‥・。あーあ、とうつむいた瞬間、佐藤さんと目が合いました。
「きれいですね」と私は、とっさに声を出しました。もちろん、その時は何も見ていません。今思えば、なんて失礼なことをしたのだろう、と反省しています。すみません。私はあの時、佐藤さんがいつものように庭の手入れをされているようなので、あわててそう言い、隠そうとしたんです。自分の大きなため息と、しょげた顔。そして早々に立ち去ろうとした、それだけなのです。それなのに‥・。佐藤さんはニコニコ笑い、よかったら、とそのまま庭に招いて下さいましたよね。ほとんど知らない私に、バラが好きなのよ、と優しく微笑んで、一つ一つ紹介してー。初めこそ少し戸惑っていましたが、私は段々と自分が隠やかになるのを感じました。小さな、色とりどりのバラは庭中に咲き、どれもこれも見事だった。私は、自分のトゲがするする抜けていくのがわかりました。きれい、と心の底から声が出ました。「どうぞ。」佐藤さんはそれから帰り際、バラを下さいましたよね。私が一番見ていた、薄ピンクの咲きかけのバラ。「あなたみたい」と、また優しく微笑んで。
佐藤さん、あの日、あの時、ありがとう、しか言えなくてごめんなさい。佐藤さんの優しさには、一言じゃとても足りないのに、ありがとう、と一言でごめんなさい。他に言葉が見つからなくて、それ以上の言葉を知らなくて。私は、嬉しくて嬉しくて涙が出そうでした。悔し涙でも、やけくその涙でもなく、ただあったかい涙。佐藤さんの日焼けした顔、目尻のしわ、土のついた働き者の手。「女性からでごめんなさいね」と言う笑顔も、私にはもったいなくて、もったいないほど美しくて、嬉しくて。私はバラを握り、今日一日全てを謝ろうと思いました。そして、受けとめよう、また頑張ろう、と。あなたのバラに、背中を押されてー。
佐藤さん、何度言っても言い足りません。あの時、ステキなバラを、優しい笑顔を、本当にありがとうございました。バラはあれからずっと、私の胸に咲き続けています。
敬具

祖母へ K.S(徳島県)

臍帶納器と書かれた桐箱の裏に、昭和十三年八月十三日誕生、体重四百六十匁、住所、名前、父母の名などが記されていました。四百六十匁とは一七二五グラムです。
祖父母、父母、叔父、叔母の大人ばかりのなかに生まれ、家族の宝でした。
産婆さんは「大阪へ行くとガラスの箱があって、その中で育てられるのだけど、徳島には、まだないけんな。子どもは、また出来る。」と言ったそうです。
祖母は“七ヵ月で生まれた子は育つ”と言う信念を持ち、折角生まれたのだから、どんなにかして、生かしてやりたいと考え、周りを、お腹の中の温度と同じにすれば良いのではないかと。
それからの祖母は、部屋を締め切り、暖かくし、お湯に一日朝夕二回、入浴させたそうです。お湯に入れると「オギャー、オギャー」と泣いて、小さな手足を動かすので、それを楽しみに、毎日毎日、入浴させたそうです。
祖母は「わたしの親指ぐらいの足だったよ。体の半分は柴色で冷たく死んでいるようだったよ。」とよく言っていました。
祖母が暑い暑い真夏に締め切った部屋の中で、汗をふきふき入浴させている様子が目にうかびます。
お七夜、名付けの日、赤飯を近所へ配る時叔父が「『赤ちゃん、お元気ですか。』と聞かれたらどうしょう。」と困っていると祖母は言ったそうです。
「ええ、元気にしております。と言うんよ。」
そんなことがあったとも知らず、私はどんどん大きく成長していきました。
そして、祖母は六十八才で天国へ旅立ちました。祖母の年をこえて、今年、七十才になりました。祖母にもらったこの年月、大切な大切な毎日です。
今、思えばわがままばかりの私だったのですが、その当時、もっと聞いておけばよかったと。
戦争中、近所と一緒の防空壕の中で、祖母は、ナンバ(トウモロコシ)の粉で作った焼き菓子を持って来て、みんなに一つずつあげていました。子どもがたくさんいたので、私の隣でお菓子がなくなり、私にはあたりませんでした。私はくやしくて、食べたくて、おこっていました。祖母は「家に帰ったらあげるけんな。」と、頭をなでてくれました。あとで、家で食べたお菓子はおいしくうれしかったのです。いまもその香りがにおってくるようです。 私の人生は、あなたにもらったものです。残りの人生は一日一日を大切に生きて、世の中の人のためにできることからしていきます。
おばあちゃん、ありがとう。

平和式典に参加した人へ Y.Y(福岡県)

仲間にありがとう、平和にありがとう

この夏、二泊三日の『平和の旅』で、いっしょに広島の平和記念式典に参加した十二人の仲間のみなさん、その後お変わりなくお過ごしですか?旅のお疲れは抜けましたか?
それにしても今年の夏は本当に暑かったですね。ただでさえ暑い夏、しかも全国や世界各地から集まった大勢の人たちの熱気で、あのときの広島の暑さは格別でした。暑さを避けて夕方から回った慰霊碑めぐりでも、ちょっと歩くだけで汗がじとじとと噴き出て、ガイドさんの説明を聞く間にも無意識のうちに日陰を探していました。
「初日からこれでは先が思いやられる」という不安の声も出る中で、翌日も歩け歩けの強行軍を、小学生のお子さんも含めて全員無事にこなすことができたのも、みなで励ましあって歩いたおかげだと思います。わたしの万歩計は、初日は八千歩、二日目と三日目は一万歩をこえていました。気候のいい時ならまだしも、あのぎらぎらの太陽の下、あえぎあえぎ歩く一万歩は何倍にも感じました。でもそれだけに、六十三年前のあの日、原爆の炎に焼かれて傷つきながら逃げ惑った人たちの熱さや苦しみが、すこしは実感できたように思います。
家に帰ってから子どもたちに話すと「お母さんが、炎天下に一万歩も歩いたなんて信じられない」とびっくりされました。自分でも、暑さに弱いわたしが…とちょっぴり自信がつきました。それもこれも、いっしょに歩く仲間がいてくれたからこそで、わたし一人だったら絶対に途中で「もうだめ」とあきらめていたと思います。いっしょに歩いてくれる仲間がいて、「もうちょっとだから頑張りましょう」、日陰に入ると「あー、スーッとした」と笑いあいながら一歩一歩進むことで、弱いわたしも強行軍の日程をこなすことができたのだと思います。いっしょに何かをする仲間の大切さをこのときほど身にしみたことはありません。みなさん、本当にありがとうございました。
思えばあの原爆の日にもたくさんの人たちが助け合っています。生き残った人の手記には、途中で出会った見知らぬ子を連れて逃げた話や、大怪我をした女性を背負って、救護所まで連れて行ってくれた朝鮮の少年の話などが残っています。人類史上最も恐ろしい厄災の時にも、仲間がいて互いに助け合っていたと知ることは、わずかな心の慰めになります。願わくは、そのような悲惨な状況下での助け合いが二度と起こらないですむようにということです。
暑い暑い広島でしみじみ感じた仲間の大切さ、そして平和な時代に生きていられることのありがたさーこの二つをしっかり心に刻みながら、わたしたちの暮らしがこれからもずっと平穏に続いていくことを願っています。

亡妻へ T.H(鹿児島県)

天国のママありがとう
ママ、その後お変りないですか?
天国は寒くないですか?
ママが、ママの母、二人の子供、パパそして多くの宝物と楽しい想い出をいっぱい我我家族に残し、肺がんのためあつ、という間に六十六歳の人生をあわただしくかけぬけ一人で天国に旅立ち、お互い天国と地上に別れてからもう三年の歳月が流れたよね。
今日も、パパはママが残してくれた、ママとの楽しい想い出がいっぱい詰まった四十年間の「宝石箱」をあけながら、ママと共有したなつかしい、楽しかった時を想い出しているよ。
ママはなぜそんなに急いで一人だけでパパを残してさっさと天国に逝ったのかなあ?
パパは、パパ、パパと言う四十年間毎日聞いたあのママのなつかしい、明るい声が聴けないのがとても淋しいよ。
パパは、今日も明るく微笑んだママの面影に今日一日の出来ごとを話しかけているよ。
でもね、ママは何も応えてくれないね?
天国はどんな所ですか?
天国とはよっぽど居心地がよい所のようですね?
ママが一人で天国に逝ってからは、ママはパパに一度も夢を見せてくれないね。
そんなに天国は住みやすい所ですか?
一度だけでよいから地上に里帰りは出来ないですか?
パパは、ばあちゃんもいるし、まだこの現世でもう少しすることもあるので、あとしばらくしてからママの傍に逝く時には今まで四十年間の愚行を謝りつつママに「詫び状」を持っていくから、今から一人分ママの横に空けていてね。
その時には、パパは年をとったね。
顔は皺だらけになったね。
また、この人は誰ねと言わないようにね。
ママに合わせてきれいに若作りしていくからね。
ママにもう一度だけ逢いたいなあ?
人はこの世に生まれれば必ずくる別離がこんなに早く、また突然降り懸かるとはまるで天から降ってきたようなあつ、という間もない出来ごとであった。
君と君の母の人生のすべてを僕に託して、僕と結婚してくれて四十年ありがとう。
ママに心からお礼と感謝の気持ちである。
この広い世の中でいつも笑顔の明るいすばらしいママとの出逢いの機会を与えて下さった神様に心からお礼と感謝を申しあげたい。
パパは自分の人生であの明るい笑顔のすてきなママとの巡り合いは、この世において最高の幸せであると同時に、奇跡でもあり、また来世でもママの横にいくから再び巡り逢えるよね。
ママ、パパを生涯の伴侶として選んでくれてありがとう。
ママは今まで家族に、明るい笑顔、楽しい会話、多くの幸せそしてあたたかい愛の光を燦燦とふりそそいでくれてありがとう。
天国のママに心からお礼と感謝を言うよ。
ママ、天国まで聞こえるかなあ?
ママ、これからは天国より「千の風になって」昼夜家族を見守ってね。
ママ、今まで四十年間ご苦労さん。
ママ、天国でゆっくりお休み下さい。
ママ、今まで数えきれないほどの愛、なつかしい想い出をありがとう。

地上のパパより

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