第3回しんきん「ありがとうの手紙」キャンペーンの受賞作品のご紹介
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受賞作品のご紹介ありがとう大賞しんきん賞ふれあい賞まちのえがお賞
ありがとう大賞
曾祖母へ A.N(東京都)

ありがとう
ひぃおばあちゃんは、最近、「ありがとう」を言う回数がとっても増えた気がします。それは、昨年の夏に両目が見えなくなって、自分ひとりでできることが少なくなったからだと思うの。だれかに頼むことが多くなって、その度に「ありがとう」って言うから、ひぃおばあちゃんの「ありがとう」が一日に何十回も聞こえてきます。今までひぃおばあちゃんは何でも一人でやっていて、とてもおしゃれで、髪をセットして、まゆ毛を書いて、口紅をして、くつだって少しヒールの高いものしか持ってなかったでしょ。ところがおしゃれするどころか、ふだんの生活さえ、ままならなくなってしまいました。私が、目薬をさしたりするとやっぱり私にも「ありがとう」と言ってくれるでしょ。でもね、目薬をさすことなんて、私にとって何でもないことだし、ひぃおばあちゃんが出来ないことを家族がお手伝いすることは当り前のことだから「ありがとう」なんて言わなくていいんだよとその度に思っているの。それに、ひぃおばあちゃんがどんな気持ちで「ありがとう」と言っているのかと考えるとせつなくなります。この前、ママに、「トイレぐらい一人で行きたいと思っているのよ、夜中のトイレはなおさら。となりに寝ている人を起こすのは、気がひけるのよね。でも、寝ていて起きるとよけい方向がわからないの。」と言っていたでしょ。たとえ家族でも私だっていちいちトイレに行くと言うのはイヤです。言わなくてはならないなら、二回に一回ぐらい我慢してしまうかもしれません。
ひぃおばあちゃんは工夫をはじめたでしょ。手すりにひもを巻いて、ここまできたら左に行くというように目印ならぬ手印をつけて、自分の部屋までひとりで行けるようになったでしょ。アイディアもすごいけれど、出来ないことがあるとイライラするでしょ、それを、なんとか工夫してできるようにしようと考え方を方向転換することがすごいと思うの。ひぃおばあちゃんは八十六才だけれど、点字も週一回習い始めたでしょ。新しいことを始めるのは勇気がいるし、でも、それ以上に、両目が見えないことを悲しむことから方向転換して目のかわりを見つけて努力しているのは本当にすごいと思うの。
今、学校で先生が「~をしてみよう」というとすぐ「そんなの無理」とか「無理、無理」とか、クラスのみんなは言います。ひぃおばあちゃんを見ていると、世の中に無理なことなんてないんじゃないかなと思います。だって、年をとっていたって、目が見えなくたってやる気さえあればこんなに出来ることが増えているんだもの。ちょっとやる気を出してがんばれば結構何でもできるんじゃないかな。そんな勇気と挑戦する気持ちをくれたひぃおばあちゃんに私から一言伝えたいです。
「ありがとう。」

しんきん賞
息子へ A.I(山梨県)

「ほうとう」息子の君へ
結婚し、君が生まれてもずっと私は教師の仕事を続けてきました。
「ママ、ちょっとでいいからいっしょにおふとんに入って。おはなしして。」
幼かった君のいじらしい願いにもなかなかこたえられなかった。幼稚園の遠足にも、小学校の授業参観にもなかなか行けず、随分さびしい思いをさせてしまったね。取り戻すことの出来ない日々のことを思うと今でも切ない思いがこみ上げて来る私です。
それでも君は少しもひねくれることなく、元気に育っていきました。
そして、君が大学進学のために上京する前日のこと。
「ねえ、東京に行ったらしばらくは帰って来られないよね。だから、今晩は好きなもの何でもリクエストしていいよ。松阪牛のステーキでも特上寿司でも、おっきいタラバガニでも何でもオッケーだから。」
一人暮らしを始める君のことが心配で、何より君がこの家からいなくなることが寂しくて胸がいっぱいでした。
しばらく考えてから君は言いました。
「寿司もカニもステーキも金さえあれば、どこでも食えるから今日はいいよ、それよりお母さんのほうとうが食べたい。」
ほうとうーーきのこ、里芋、ねぎ、白菜など沢山の野菜や油あげ、肉などと共に平めんをみそ味のスープで煮込む山梨の郷土食です。すこしとろけるまで煮たカボチャが麦みその味をひきたてます。栄養満点で身も心もあたためてくれる、寒い季節の夕食の定番です。
君が一度は食べてみたいと言っていた松阪牛ではなく、素朴なほうとうがいいと言ったのは、とても意外でした。
いつも仕事のことが頭から離れず、ゆったりと君と接することが出来なかった負い目のようなものがずっとありました。でも、君は旅立ちの食事に母のほうとうを選んでくれました。早春の晩、大なべいっぱいに作ったほうとうを君は何杯もおかわりして食べていましたね。
空っぽになったおなべを洗っていたら、涙がポロポロこぼれたけれど、私はしみじみ幸せでした。君との間に確かな「きずな」があることを実感出来た夜でした。
あれから六年、君が都会で暮らすようになってからほうとうの出番はぐんと減ってしまいました。でも、あの日の君のことばは今も母の心の支えになっています。
うれしいリクエストをしてくれた「ほうとう」息子君、ほんとに、ほんとにありがとう。

亡父へ J.G(岐阜県)

生きる希望
あなたを亡くして十二年が過ぎました。僕の父であり、恩師であったあなたから受けた情愛や教えを忘れることはできません。「親だから子供のために全身全霊を尽くすのは、当たり前じゃないか」。そう言いながら苦笑いを浮かべるあなたが、僕の胸の中で息づいています。
十六歳の僕は、生きる意味や価値を見失いかけていました。思春期の特徴である、精神の不安定さに、僕は今でこそ言えるのですが「自殺志望者」でした。剃刀で手首を切り、血が滲む様子を、赤いミミズが体から這い出すのを楽しんでいました。そんな自傷行為を発見したのは、あなたです。薄々は母も知っていたかもしれませんが、家庭内暴力を恐れる母は、沈黙する道を選びました。
説教もせず、体罰もせず、あなたは一冊の本を自分で選び、それを読むように僕に命じました。フランス人作家アンドレ・マルロー著「青年に語る」でした。それまで本を読む習慣のない僕にとって、それは一ヶ月も机の隅に放置する存在でした。それをあなたは知らぬ顔で見過ごした。自らの意欲と選択があらねば、何も変わりはしない。そんな信条を後で知りました。
マルローは実践の人でした。死を賭した行動そのものの中に人間の意志と尊厳を見出そうとした彼の言葉たちが、僕の弱々しい心を砕きました。自傷行為をする無意味さ。自分を甘やかせる不甲斐なさ。マルローが父に代わって僕を厳しく戒めました。その著作を十回近くも読み返しました。
僕が生きるのに、僕でしかその道は作れません。あなたが自らの人生経験の成果を僕に語りたいと願っていることを知りました。それまで、僕自身は選択しなくてはならない時間や未来から逃げていました。選択には必ず責任があります。僕は、あなたと真剣に人生を話し合ううちに、生きる希望に炎がついたのでしょうか。積極的に選択するには勇気が必要です。それも自分ひとりで責任をはたさなくてはなりません。
僕はマルローを触媒にあなたに心を開きました。あなたは最初からそのシナリオを書いていたかもしれません。まだまだ、あなたのような大きな人生の成果を僕は得ていません。それは財産でもなければ、名誉でもありません。他人からみれば、無名戦士のように一庶民として人生を終えたあなたかもしれません。だが、僕はあなたから生きる希望を与えられたのは確かです。
今の僕は、息子たちとあなたの思い出を語るのを楽しみにしています。世代や価値観や社会背景がどのように変わろうと、人は希望があるからこそ、生きる歓びにひたることができるのです。あなたはいつまでも僕の中で生き続けてください。

妻へ M.S(大阪府)

「妻へ」
覚えているか? 大和川の堤防上を河口へ向かって散歩していた日、遅れがちになる君からいつもより大きな声で呼び止められた日のことを。振り向いたその瞬間、小石につまずきよろめいてしまった日のことだよ。
君は、すぐさま勝ち誇ったように言ったよね。
「何でそんなに急ぐのよ。あなたもあとちょっとで赤いチャンチャンコなんだから。無理をせずにゆっくり歩かないと」
つまずいたのは大声を出した君のせいじゃないか、と思いながらも、立ち止まって深呼吸をした。ちょうど海の向こうに真っ赤な夕日が沈んでいくところだった。あまりの美しさに暫く見とれていた。その時、ふと思い出したんだ。確か真っ赤なセーターがあったはずだがと。
帰宅後、君が買い物に出たすきに、タンスの引き出しを掻きまわしてみた。思ったとおりだった。薄紙に包まれた真っ赤なセーターが、下の方から出てきたじゃないか。そうだよ、結婚して間もない頃、君が編んでくれたものだ。一度は袖を通したものの、あまりにも鮮やかな色に抵抗を感じ、二度と着ることはなかったはずだ。それどころか、有ることすら忘れていた。確か、「有難う」の一言も言わなかったと思う。それなのに、ほどくこともせず、大事に仕舞っておいてくれたとは……。
思えば君には苦労のかけどうしだった。せめてものお詫びのしるしとして、無事に還暦を迎えたら、このセーターを着てフルムーン旅行に行こう、とその時心に決めたんだ。昔のように手を繋いで歩こうと思った。だからダイエットのウォーキングにも力が入った。
それなのに、まさか誕生日の一週間前に癌の宣告を受けるとは……。計画していた旅行は中止になった。真っ赤なセーターでのデビューもお預けになった。また君を悲しませてしまった。
それでも君は愚痴の一つも零さなかった。元気になればいつでも行けるから、と慰めてくれた。今は治療が第一よ、と励ましてくれた。
そんな君の思いやりに支えられて手術を受けてから、早くも七ヶ月が過ぎた。順調に回復しているのは、君の祈りのお蔭だと心から感謝している。
術前にはまだ少しきつかったあのセーターは、今では逆にゆるくなってしまった。颯爽と君と手を繋いで歩くには、少し太らねば、と思っている。
約束は絶対守る。もう暫く待ってくれ。真っ赤なセーターに身を包み、君の瞳を見つめて必ず言うから。
「ずっと一緒に歩んでくれて有難う」と。

父母へ T.F(広島県)

大切な大切なお父さんお母さんへ。
この間は、たいへん立派なぶどうをたくさんどうもありがとう。
遠いところを、私の仕事の終わる時間に合わせて、暮れ方の薄暗くなってゆく道を一時間ほどもかけて車を飛ばしてきてくれて。
頂きものだというぶどうは、なるほど頂きものでなければわたしの口なんかには到底はいらないような見事なぶどうでした。まるまるとしてたっぷりとおおきな粒は、ほんとうにさながらつややかな漆黒の宝石のようで、花より団子のわたしもその美しさにうっとりと見入ってしまいました。
一緒に届けてもらった家のコロッケも、いつに変わらず素朴で懐かしく、とてもおいしかった。慌ててウスターソースを買いに走りました。一番おいしい状態で懐かしい「家コロッケ」を食べたかったので。
届けてもらったぶどうはたくさんで、きっと家にはあと味見分くらいしか残っていないでしょう。
今日は休日で、近所の公園の池の亀をぼんやり眺めていました。陽の光はさんさんとふりそそいで、池の水面からのぞく滑らかな石の上で亀たちは幸せそうに甲羅干ししていました。
そのなかに一匹、石の上でいい子にじっとしている亀の甲羅の上に、なんとずうずうしくも這い上がって行き、その亀の上に居座り続ける亀がいたのです。下になっている亀は上の亀よりも特段体が大きいというわけでもなくて、けれども文句も言わず、おとなしく上の亀に任せている下の亀はまるで悟っている人のようでもあり、亀だと言ってえらいものだと眺め入りました。
下の亀にはおかまいなく、のんきに亀の上で日光浴している亀はわたしでした。いつまでものほほんと、子どもの立場のまま、自由な独り身であぐらをかいているわたし。ごく世間的に見れば、もうとうに嫁いでいていい年頃のわたしです。
何よりも、わたしがどこかへ嫁することが二人の一番の安心だということは、鈍な亀のようでも一応自覚はしているのです。が、こればかりはどうしようもなく、また、いましばらく続きそうとも正直言わねばならず…。心苦しいけれど。
こんな亀のように歩みの人一倍のろいわたしで、いつまでたっても二人の気掛かりを減らしてあげることはできないけれど、いつも二人には幸せな心持ちでいてほしいと心から希っています。そうしてその幸いをわたしで与えてあげられたら、とも思っています。
厳しい暑さだったこの夏もそろそろ過ぎ去ろうとしています。次には楽しみな実りの秋が待ってくれています。
いつもつましい二人だけれど、おいしいものをたくさん食べて、身体を大切にしてお過ごしください。
亀の子より。

亡妻へ T.Y(愛媛県)

拝啓
元気で機嫌よくしていますか、あっそうかそちらの世は年中ごくらくの世界だったよね、うっかりしていた。
僕も早くそっちに行きたいのだが、なかなかお許しが出ません、もうちょっと待っていてくださいね。
我々の結婚日記念旅行。ずいぶんあちこち行き旨いもん食ったり、神秘的風景に感動したりだったね。僕はその都度、あゝ君と二人で生きてきて良かったと感謝していました。口に出して言えなかったけどね。
この間、最後の旅行になってしまった京都を訪ねました。君と歩いた祇園の石畳を歩きながら、十年の歳月の流れを実感して寂しさが胸に染みました。え、なァに大丈夫だったよ、君とのいい想い出が一緒だったから。
そしてね、笑ってしまうけど嵐山で君にそっくりな女性と出合って「ドキッ」とし少しうろたえたんだ、馬鹿だなァと苦笑いしたけど何やらものすごく嬉しかった。相変わらずの慌て者でおかしな男だよな。いやーそれにしてもほんとよく似ていたもの……。
そうそう、八坂の塔がすぐそこに見えるみやげもの屋さん覚えてる?君が「すてきすてき」と言って手に余るほど買い物をしたあのお店。あのとき忙しいのにいろいろ話をしてくれた旦那さんと奥さん、ちっとも変わらず頑張っているのを見て、ふーとうらやましい思いが湧いてきて困ったよ。
奥さんが覚えてくれていて懐かしいやら何やらでえらく話が弾んでね、奥さんの驚異的記憶によって素晴らしき買い物ができました。それは、あのとき君が買った中一番のお気に入りだった「飾り扇」実はものの片方だったんだ。奥さん言うに、余りにも君が喜ぶのでつい言いそびれたんだって。「やっぱりご縁がおしたんどすなァ」と言って少しうるるときていたよ。そう、そのもう片方の扇を買って帰った訳です。
君が選んだ金箔の地に、松の大木とその足下の池で遊歩する亀を描いた見事な扇。対し同じ金箔の地に、天空を舞う鶴、それを愛し気に見あげるもう一羽の鶴。この夫婦鶴が描かれた扇でとなりました。
いま、嬉しそうに並んでいる扇を眺めながらこの便りを書いています。君に見せてあげることができず残念ですが仕方ないよね。
子供たちもそれぞれの社会をきずき頑張っている、四人の孫たちも元気。そんな彼らの倖せを願うだけでいい僕の穏やかな毎日。それもこれも君が心をこめて育んでくれた魂だと感謝している。また、僕にたくさんの良き想い出を残してくれた君、今ごろ遅いだろうが、ありがとう、本当にありがとうと腹の底から言い、この感謝の心を宝物として残された人生をしっかり生きようと思っている。
今日はこの辺で、また便りするよ。
じゃあね 敬具

ふれあい賞
姉へ S.N(北海道)

二日間降り続いた雨もようやく上がり、今朝は眩しいほどの青空です。その後お変わりなくサークル活動楽しんでいますか。
窓から眺めると畑の土がしっとりと潤い、植物も生気を取り戻したように見えます。この時季、姉ちゃんのよく手入れされた畑の様子が目に浮かびます。トマト、キューリ、ナス等が食卓を賑わせていることでしょう。
私は近所の友達と時々パークゴルフを楽しんでいます。
この春に古稀をむかえ、この頃はちょっとしたことにも涙もろくなりました。八歳上の姉ちゃんには、この気持ちよくわかるでしょう。ひとり台所仕事をしている時など、いろいろなことが頭を過り、ほろっと涙が流れることがあるの。
一緒に寝ていた幼い頃から今に到るまで、姉ちゃんには数え切れないくらいお世話になりました。私が結婚十一年目にして妊娠し、その入院の折りにもずっと付添ってくれました。陣痛に苦しむ私の腰を撫で続けてくれ、缶詰のみかんを口に含ませてもらったことを今も鮮明に覚えています。
退院時に助産婦さんが「はい、おばあちゃんに抱っこね」と言って姉ちゃんの手に渡したっけ。考えてみると、あの時姉ちゃんは四十二歳だったのに。義兄さんの車で退院したあの日、今から思うとみんな若かったよね。幸せいっぱいだったよね。
姉ちゃんの還暦をきょうだいでお祝いした日、私の書いた文章を兄さんが読んだのですが、涙もろい兄さんが途中で声が詰まって読めなくなったのを覚えていますか。姉ちゃんに優しくされた思い出がどっと胸に迫ってきたのだと思うよ。
私が中学校二年生の時に姉ちゃんはお嫁に行ってしまったけれど、その後看護学校を卒業して就職した病院が姉ちゃんの家の近くだったのが始まりで、大人になってからはお互いに近くに住んだ年月が長かったよね。それだけに世話になることも多くいつも感謝しておりました。ありがとうの気持ちを一度は伝えておきたくてお便りしています。
そのふくよかな体と心で周りの人を包み込んでくれる姉ちゃん、本当にありがとうございます。姉ちゃんの妹でよかったとしみじみ思います。
今はすでに義兄さんが亡くなり、わが夫も認知症で入院中ですが、これからも仲良く、お互いに助け合いながら頑張りましょうよ。
今までに姉ちゃんを詠んだ短歌が何首かありますが、その中から一首贈ります。

姉ちゃんと柿という字を書き違え柿の赤より温かいと思う

ふふふ、本当だよ。
まだまだ暑さが続くようです。ご自愛下さい。

隣のおじさんへ T.H(北海道)

となりのおじさんへ
いつも雪かきお疲れ様です。雪が降っているとほとんど外で過ごしていると思うくらい雪かきをしていますね。年金を受け取っている年代ですが、近所にはおじさん以上の高齢者が住んでいるので、比較的若いですよね。だ から自分の家の前だけでなく周りの家の前まで雪かきをしていますね。うちの母も雪かきをマメにします。健康のためにイイという理由で雪かきは母に任せていて、大雪が降らない限り私は手伝いません。
いつだったか問題が起きました。母が入院することになりました。といっても命に関わるものではないので心配はないのですが、入院期間中の雪かきが大きな問題でした。お見舞いやらお返しやら煩わしいのが嫌で親戚に も友人にもましてやご近所にも内緒の入院でした。入院直後の朝から雪が積もっていました。朝から私が朝かきです。おじさんに見られていました。その後も雪の日が続きました。
毎日私が雪かきをしているものだから変に思われていたでしょう。ある日、仕事を終え帰宅すると家の前が完璧に除雪されていました。
その日は日中大雪が降りました。雪かきをしてくれたのは言うまでもなくおじさんであることは間違いありませんでした。お礼の電話を入れました。翌朝、また積もっていました。
おまけに子どもは風邪で発熱。妻は子どもを病院に連れて行くため、仕事を午後からにしました。ですから普段はいない9時過ぎまで雪かきをしていました。
その日の夜。おじさんの奥さんが来ました。申し訳なさそうに「ウチのひとが暇なものでお宅の前まで除雪しちゃって。ごめんなさい。
奥さん、今日ウチのひとに迷惑かけないと思って、仕事遅刻してまで除雪していたのでしょ。本当にごめんなさいね。気を遣わせちゃって。」「いえいえ、違います。…・(説明)…‥ですから。」奥さんは安心して帰っていきました。それ以来、朝の除雪はあまり無理をしないでおじさんの好意に甘えることにしました。
母のことも心配してくれていたようですね。
防犯のため、一階の母の住まいの電気を夕方に点けて11時頃に消していました。電気がつくと母に電話をしてくれていたと聞きました。雪かきは最近しないが家には居ると思って。でも出ない。電気はつくのに出ない。変だと感じていたらしいですね。
ご近所っていいものだなぁと思いました。
そんな優しい方が近くに住んでいておつきあいさせてもらっていることに心から感謝しています。

亡妻へ S.T(岩手県)

『ありがとう』とずっと言いたかった。
でもありがとうと言ったら君がいなくなってしまいそうで恐かったんだ。
深夜に突然、電話が鳴り響いた。病院からだった。僕は息をするのも忘れ飛ぶように走った。でも、ありがとうという前に君は逝ってしまったんだ。
亡くなる少し前、喉に穴を開け人工呼吸器を付けた君は、病室でたった一人ぼっちだった。苦しくて意識がもうろうとなりながら白い紙に『お世話さまです』と5回も書きなぐっていた。本当に良く書いてくれたね。
インクのかすれた弱々しい字を見ながら号泣していた僕は、……でもなぜお世話さまですと書いたのだろうと、ふと思った。
お世話になりましたではなく『お世話さまです』。そして僕や子供達、身内に宛てたにしては、どことなく他人行儀ではないか。
そんな思いを引きずりながら、あれからもうじき6年になる。
最近、引越しをしたんだよ。
ダンボール箱にアルバムを入れながら昔を思い出していた。
君とつきあい始めた頃、僕は渉外係で君は預金係だった。そういえば君は、いつも窓口のお客様との応対の時も電話を受ける時も、必ず満面の笑顔だったね。
その姿は、本当に輝いていたよ。
口ぐせは……そうそう、ありがとうの感謝の気持ちを込めた『お世話さまです』だったね。『お世話さまです』……?。
あっそうか!そうだったのか。
意識が薄れて行くその時、君は最高に輝いていたあの頃の自分に戻っていたんだ!
きっとそうなんだろう?何をしていても楽しそうにしていた、あの頃に……。
思えば結婚してからずっと苦労の連続だった。大変な思いをして2人の子供を生んでから君は、難病に侵された。14年間も苦しんでもうだめかもしれないと言いながら2回の手術にも良く耐え忍んだと思う。
そんな苦しみは、人前では見せることなく本当に良き妻であり、良き母親だった。
口から全く物を食べることが2年間近くもできない時でも、『これが私のできる仕事だから』と言ってちゃんと料理を作ってくれたね。味を見ることも良くできないのに、なぜかいつも美味しかった。
あの時、ああしていれば、いや、ああしてあげていれば……君には本当に苦労をかけた。ごめんね……。
言いたくても言えなかった言葉、僕は今ならはっきりと言えるよ。
とても輝いていたあの頃、今でも僕の心の中に君は生きているんだ。そうこれからも、ずっと……。
『お世話さまです』そして本当に『ありがとう』。

ライバルへ A.S(宮城県)

良きライバルへ
私たちが出会ったのは7年前、高校2年生に進級した春でした。
最初はなんとなく会話を交わす程度の仲だったけど、初めてお互いの将来について話したとき、“医学部に進んで医師になりたい”という同じ目標を持っていることを知りました。「そうだったんだ、同じだねぇ」とふたりで笑ったあのときの、恥ずかしそうな照れくさそうなあなたの真っ赤な顔が、今でも鮮やかによみがえってきます。
でも、それからすぐに私は病気で学校に行けなくなりました。あなたに負けたくなかったし、一緒に目標を達成したかったから、すごく悔しかったです。そんななか、私の楽しみは定期的にあなたから届く数学のプリントでいっぱいの分厚い封筒でした。
正直、プリントは難しくてただ積もっていくばかりだったけど、届くたびに「頑張ろうよ」って励まされている気がしました。
結局私は高校を退学することになって、あなたからの分厚いプレゼントは届かなくなりました。その代わり、私の心の叫びを綴ったもの凄く長いメールに応えてくれるようになりましたね。愚痴、将来の不安、勉強方法、やってみたいこと……。いつしかあなたは、私にとってカウンセラーのような存在になっていました。
少しずつ体調を回復した私は通信制高校に編入学し、迷いながら新しい目標を持つようになりました。あなたは、語り合った目標を一心に目指しながらも叶わず他の学部に進みました。
そういえば7年前、こんなことも話しましたね。
「もし医学部に行けなかったらどうする?」
私は「公務員試験でも受けるかも」と言いました。あなたは「看護学校に行こうかな」と言ったのを覚えていますか?
あれから7年。私は看護学校を、あなたは大学看護学科を卒業し、私たちはともに看護師国家試験に合格しました。
お互いに現実という壁にぶつかりながら、きっかけもそれぞれながら、こうしてまた同じ目標を目指すことになった偶然に照れてしまうのは私だけでしょうか?
あなたがいたから新しい希望が見えた。
あなたがいたから頑張ってやろうと思えた。
あなたがいたから一緒に国家試験に合格しようと思えた。
あなたがいてくれるから、私は前を向いていられるのです。もし目指す道が変わっても、これからも良きライバルでいてください。

新聞少年へ S.K(石川県)

「あなた」にありがとう
「あなた」に出会ったころ……、
私は、リハビリを兼ねて新聞配達に精を出しているところでした。
激しい交通事故に遭い、長期入院生活を体験して仕事も家庭も失いましたが、人間らしく生きていくためには、汗を流して働かなければなりません。
そんな私を追いかけるようにしてついてきたのが、十歳になったばかりの「あなた」でした。
「あなた」は、毎朝四時に天神坂という急坂の下で私を待っていて、「おはようございます」と元気な声で挨拶をすませると、新聞配達をする私のことを頂上まで追いかけてくるという、チョッピリ変わった少年でした。
最初のころは坂の途中でダウンしていたのですが、二週間もするとピッタリ離れないで登れるようになりましたね。
「おつかれさま。今日も暑くなりますが、お仕事がんばってください」と言って走り去る「あなた」には、きっとなにかワケがあるのだろうと思いましたが、それは尋ねまいと心に決めていました。
「オジサンに負けずに天神坂を登れるようになりましたので、ボクにも新聞配達をさせてください。お母さんが一人でがんばっていますので」と、「あなた」から告白されたのは、もう夏休みが終わるころでした。
胸がキュンと熱くなったのをおぼえています。「あなた」の暮らすアパートを訪ねると、部屋の片隅に新しい位牌がありました。
お父さんが若くして交通事故死したことをお母さんから聞かされた直後、私に真向かって正座した「あなた」が、「これからは、ボクがお母さんを助けたいのです」と、声を振り絞って訴えるものですから、お母さんも私も涙がとまらなくなってしまいました。
私たちが子どものころは、モノもカネもなく不便な時代でした。でも、そのころ子どもたちは澄んだ目と純粋な心を持ち合わせていました。今はモノもカネもあふれて便利な時代ですが、子どもたちは心を見せず、読ませなくなってしまったように感じていました。
私たちが子どものころは、知らず知らずのうちに学んできた「おもいやり」の心が、少しずつ忘れられ、気が付いたときには心を閉じてしまった子どもたちが多くなってしまったように感じていました。
もう還暦を迎える私ですが、「あなた」から多くのものを学び、励まされました。
明け行く空を仰ぎ、さわやかな空気を胸いっぱいに吸い込みながら新聞配達をしていると、道で出会う一人ひとりに声をかけたくなってきます。
それは「あなた」との出会いがあったお蔭です。ほんとうにありがとう。
転居先の母子寮で、お母さんとともに明るく元気にがんばってくださいね。

障害児の息子へ Y.M(東京都)

親愛なるジョーくんへ
ジョーくんは、赤ちゃんの時からなかなか笑わない子でした。だから、たまにニッコリするととっても嬉しかった事をよく覚えています。3歳になっても言葉が全く出ず、なんかおかしいなあと心配しました。ネットでいろいろ調べていくうちに、ジョーくんの様子にぴったりの障害にたどり着きました。それは自閉症……。
全く予期していませんでした。知らない世界、ママはその時とても怖かった。ジョーくんが障害なの?嘘だよね、きっと違うよ、そう思いたくても要件はそろっていました。パパやおばあちゃん、おじいちゃんが心配するので家では明るく振舞いました。ママが強くならなくちゃって。でも通勤途中の電車やバスの中で気づくと涙があふれて止まりませんでした。「神様どうしてジョーくんが自閉症なの?かわってあげたくてもかわれない。どうして…どうして…。」そんな事ばかり考えてはネットや本で自閉症について調べました。
きっと違うって答えをみつけたくて……。
ママは現実に対して、そしてジョーくんに対してきちんと向き合えていませんでした。ジョーくんの為でなく、ママの気持ちの為に嘆き悲しんでいた、そう思います。ジョーくんの天使のような寝顔をずっと見つめていました。涙があふれその時やっと気づきました。障害があるということが悲しいことではなく、障害を受け入れられないママの心が悲しみをうんでいるだけなんだと。だってジョーくんは生まれてからジョーくん自身の人生を一歩一歩笑顔で歩んでいたのですから。それから3歳をすぎて急に言葉が出始めました。ママのことも「ママちゃん!!」と呼んでくれるようになり、笑顔の素敵なお兄ちゃんになりました。でも軽度ではあるけど自閉症である事に変わりはありません。並外れた記憶力を持ち、英語の理解は中学2年生位のレベルになりました。並外れた体力があり疲れをしりません。夜空に光る月を見上げては「ジョー、ムーン行く!」と大きくなったら月へ行くと決めているジョーくん。すべてはジョーくんの個性となりました。障害者センターでは障害を持つ多くの子供や大人と知り合い、これまでに知ることのできなかった、知ろうとさえしていなかった世界に触れることができママの人生の大切な財産となりました。全てジョーくんのおかげです。よく“子は親を選べない”というけれど、ママはそう思っていないよ。
星の数ほどいる人の中からママを選んで生まれて来てくれてありがとう。ジョーくんが選んでくれたのだから、きっとママにしかできない事があるはずだよね。
私をジョーくんのママに選んでくれてありがとう。本当にありがとう。
そして、今日5歳のお誕生日、心からおめでとう。
平成20年6月9日 ママちゃんより

父へ H.S(長野県)

親父、この前、お袋が親父の日記を整理していて、新聞記事の切り抜きを見つけたよ。それは、俺が二十三年前、小学校の教員に新規採用されたことを告げる「人事異動」の新聞記事だよ。切り抜いたこと、覚えているかい。少し黄色みがかっているけれど、「佐藤春夫」の文字が小さくはっきり印刷されているよ。名前の横には、親父が引いたんだろう赤線が引かれていた。
親父は、酒を飲むと多弁になったけど、普段は寡黙な人だったなあ。そんな親父に「親父、俺の名前が載ってるぞ。」と言うと、「そうだな。」と、表情も変えずにひと言。祝いの言葉もなかったよな。でも、そんな親父に不満はなかった。新聞記事の切り抜きがあったことを知った今、表現するにはちょっと恥ずかしいけれど、新聞記事の切り抜きは、「愛されていた証拠」だと思うよ。
「いいか、春夫。父ちゃんは尋常小学校しか出てねえ。春夫はできるだけ上の学校に行け。それがいいぞ。」こんなことをふっと俺に言ったことがあったっけ。この新聞記事の切り抜きをした親父の気持ちが、今、一人の親父としてわかる気がするよ。
この前、新聞記事の切り抜きを持って、親父の病院へ行ったよな。「新聞切り抜き、ありがとう。」と言うと、親父は、大きく口を開け、新聞記事の切り抜きを食べようとした。そんな親父の姿に、入院が決まった時以来、久しぶりに家族みんなで泣いたよ。だけど、二十三年も前に、我が家に配達された新聞の小さな記事が、家族と俺に親父の愛を伝えてくれた幸せな瞬間にもなった。ありがとう。
親父が認知症になってもう七年になりますね。入院して寝たきりになって五年が経ちましたね。親父の目には、息子である私は、どんなふうに映っているのですか。孫や息子・娘たちのことは忘れてしまっていいけれど、「昭雄(てるお)さん、私はだれだかわかるかい?」のお袋の問いかけには、「よし子じゃねえか。」って、これからも答えてやってください。頼みます。

孫へ M.B(奈良県)

「恭、ひな おじいちゃんの愛する孫へ」
「恭(恭輔)」、「ひな(妃奈乃)」今日はほんとうにありがとう。
六月十一日、わが家の田植えの日だ。パパは会社を休んで田植機運転、おじいちゃんは苗運び、おばあちゃんは植え終わった苗箱を洗い、ママは夕飯を作るのがいつもの役目だ。
午後三時だったね。ゆうべの約束どおり二人で田んぼに来てくれたのは。恭は小三、ひなは小一、学校の帰りは一緒だったんだね。
二人とも肥料会社の宣伝用の黄色い帽子、白い真新しい軍手、恭は青、ひなは赤色のゴム長姿。りりしく似合っていたな。
君たちは、おやつのリンゴジュースを飲んで早速のお手伝い。恭はパパの田植機近くまで苗運び。でもあれは重かっただろう。持ち上げるだけでお腹に泥がついてしまう。ひなは、パパの植え終わった苗箱を小川の中のおばあちゃんの所へ運んでくれた。いつの間にかひなも川の中でおばあちゃんといっしょになって箱洗い。濡れそうになる上服の部分をしっかり口にくわえ、四ツん這いになってヨイショ、ヨイショと洗ってくれたね。
驚いたのは、恭が一人で田植機を運転したことだ。パパに教わったのか、けっこう上手に植わっていたよ。感心、感心。
でも、そのあとすぐだったね。田植えが終わって、パパに余り苗を渡そうとしてスッテンコロリ!田んぼの中でころんだのは。「わぁ、パンツまで泥んこや」と大きな声だったよ。おでこまでしぶきを受けて、みごと全身泥だらけだ。ママが見たら何というだろう。「恭ちゃんは泥んこ大好き人間やね」と大笑いすること間違いない。
田植えは終わった。田んぼは一面青々としてみちがえるばかりだ。
帰りはパパは田植機、恭はパパの横に同乗。ひなは、苗箱2枚とお兄ちゃんのゴム長を入れて一輪車押し。おばあちゃんは、おやつの残りのビニール袋を手に提げ、おじいちゃんは、苗箱を運搬車にいっぱい積んでみんなのうしろに続き、一列になってお家に向かったね。
道ばたにあざみの花が咲き乱れ、クローバの白い小さい花もたくさん咲いていた。
おりから西の空の雲が途切れて、夕焼けの気配。明日はお天気になってくれるだろう。
おじいちゃんはこの時、このひとときをこみあげるような「しあわせ」を感じたんだ。君たちを眺めながら、まっすぐ、まっすぐ成長しているその姿に、嬉しくて嬉しくてたまらなかったから。
もう一度お礼を言うよ。「恭、ひな」今日はほんとにありがとう。

道を教えてくれた人へ M.T(愛媛県)

毎日、暑い日が続いていますがお元気ですか。私は東京の街角であなたに道を教えていただいた、就職活動生です。 覚えているでしょうか?

あれは去年の4月のことでしたね。大学3年生で就職活動中だった私はあの日も面接を受けるために群馬から東京に出てきていました。もともと高校まで愛媛で育ってきた私は、右も左も分からない東京の道を、パソコンからプリントアウトした簡単な地図だけを頼りに会社の場所を探していたのです。今考えるととても無謀なことをしていたなと我ながら思います。
あの日、面接時間の10分か15分前になっても会社の場所がわからず、道の真ん中で何度も見返してぐしゃぐしゃになった地図だけを持って周りを見渡していたリクルートスーツ姿の私は、もしかしたらすごく目立つ存在だったのかもしれませんね。今だから正直に言います。あの時の私は恥ずかしながら21歳にもなって誰かに道を尋ねることが出来なかったのです。だからあなたが声をかけてくれたときどんなにうれしかったか、今でも忘れることが出来ないのです。
「どこの会社を探しているのかな?」
そう言って声をかけてくれたあなたはくしゃくしゃになった私の地図を手に取り、場所を教えてくれたばかりではなく、面接まで時間がないことを知ると、ご自分の会議の時間が迫っていたのにも関わらず面接会場の近くまで一緒に走って連れて行ってくれました。見ず知らずの一人の学生のために、そこまでしてくれた人がいたことを私は一生忘れません。あの時は本当にありがとうございました。

私はあの後無事就職活動を終え、今は地元愛媛で働いています。あの時、あなたが場所を教えてくれた会社でも、東京という場所でもないけれど、同じ空の下、悪戦苦闘しながら社会人一年生として頑張っています。毎日楽しいことばかりではないけれど、あなたというやさしい人に出逢えたこと、そして周りの多くの人に支えられてこの仕事を得られたことに心から感謝し、これからも職務に邁進していきたいと思っています。
そしてもし私の今後の人生において、あの時の私と同じように困っている人に出逢ったら、「何かお困りですか?」と自分から声をかけようと心に誓っています。あの時のあなたと同じように、優しい笑顔で。

留学生へ F.T(大分県)

鳳華さん、貴女は今北京へ商用の途中でしょうか、それとも上海へでしょうか。貴女からの電話で、「広州にある日本の大企業に就職した。」と聞き私は心からうれしく思いました。その巧みな日本語と人柄の良さを生かし、日中の懸橋となり職務に勤しむ姿が目に浮かびます。
二年前、留学生の貴女に日本語の試験を受ける手助けをすることになり、私は国際交流会館のロビーで貴女を待っていました。五分程遅れて貴女は美しいバラの絵柄のカップを手にして現れ、私にバラのお茶を勧めてくれました。まだ何も始めてもいない私にバラのお茶をもてなしてくださったのは、貴女の私への敬意と感謝の心であったのでしょう。「鳳華さんは御両親から立派な躾を受けて育った、素晴らしい人格の持ち主である。」とその時確信しました。
暖かい広州出身の貴女にとって日本の冬は厳しいものでしたね。貴女の風邪の回復に役立てばと思い食糧・衣類・毛布・ひざ掛けなどを届けました。貴女は快く受け取ってくれ、再び元気になってくれました。どんなに安堵したことか。
貴女と大晦日を一緒に過ごすなど思ってもいませんでした。「来訪する。」旨の電話で、早々に入浴を切り上げおせち料理の買物に出かけました。人込みで気分が悪くなったりもしましたが、貴女と取って置きのワインで乾杯できたことは良い想い出です。
新年が明けて間もなく、「中国の大学から、制度の変更により日本でインターンシップを済ませてくるように。」との連絡が来たと相談に見えましたね。この地方都市でインターンシップを引き受けてくれる会社があるのかどうか。私にとって未知の分野への挑戦でした。思い浮かぶ中央と地元の企業へ問い合わせを試みましたが、良い返事はありませんでした。当時の私の上司の一言を頼りに、中国へも進出している大手小売業の一店舗を尋ねてみることにしました。応対に出た女性係員は、「中学生、高校生を対象にしたインターンシップは自分が指導を行うが、それ以外の件は上司に聞いて欲しい。」と。再度足を運びその上司に事情を説明すると、「前例はないが引き受けよう。」との返事。私は貴女の専攻する「国際貿易」と少なからず関係があると判断し、現場で接客技術、物品の流通等を学ぶことを提案しました。貴女はそれを承諾し、彼の上司からは、「また中国人に来て欲しい。」という賞賛の言葉と共に、二週間のインターンシップを終了してくれました。
鳳華さん、貴女とのご縁はほんの四ヶ月という短いものでした。私の人生で唯一経験しなかったものーー「母性」。私は貴女を通して母性を体験し、味わい、理解することができたように思います。いつか貴女へ何かの形で「ありがとう」の気持ちを伝えられれば、と思っています。

受賞作品のご紹介ありがとう大賞しんきん賞ふれあい賞まちのえがお賞