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受賞作品のご紹介ありがとう大賞/しんきん賞ふれあい賞まちのえがお賞 Vol.1まちのえがお賞 Vol.2
まちのえがお賞 Vol.2
おかあさんへ K.K(岐阜県)

私はあなたを選んではいない。

どの家庭に生まれるか、誰から生まれるか、生まれる前に自分で選択できたらいいのに……。幼い頃、私はそう強く思っていました。なぜなら、私はあなたが大嫌いだったから。
私はあなたに誉められたという記憶がほとんどありません。物心ついた頃から、常に口やかましく厳しかったあなたから、躾や礼儀は勿論のこと、勉強や人に対する接し方まで、ひとつひとつのことを徹底的に教えられました。そんなあなたの傍から、私は早く大人になって離れたかったのです。
ところが、いつの頃からか、大嫌いだったあなたに自分がそっくりになってきていることに気づき愕然としたことがあります。
それに気づくと同時に、大人になった私は、いつの間にかあなたがいないと頑張れない人間になっていました。
きっと、幼い頃から身に染み付いた、あなたに叱られたくない、あなたに誉められたいという思いが、私の心の支えになり、私をあなたに近づけていったのだと思います。もしかすると、自分が悪者になることで、私が物事をしっかり判断できる人間に成長するよう導いてくれていたのかもしれない……と、大人になるにつれ、ようやくあなたの厳しさの中にある温かさや優しさを感じ取ることができるようになってきました。
私が高校3年生の時、以前から患っていた腎臓病が悪化し、週に3日、人工透析を行うようになったあなた。
それでも自分の体より、いつもいつも私や弟たちのことを心配して、優先してくれましたね。今思えば、あなたの生きがいはきっと「私たちそのもの」だったのでしょうね。だから、子供の頃、私たちがしっかりした大人に育つようにと、あんなに厳しかったのですね。
今の日本には、あなたのような母親が少なくなっているような気がします。親子や家族間での悲惨な事件が相次ぐたびに、「なぜ?」という疑問を感じずにはいられません。表面的に取り繕った親子関係、愛情を勘違いした子育てが一般化し、子供至上主義の風潮がまかり通り、テレビや雑誌でも子供関連の情報がもてはやされています。でも、一番大切なのは「心の絆」であり、どんなに厳しく育てても、その根底にしっかりとした本物の愛情があれば悲惨な事件は起きないだろうと……。
私が頑張れるのはあなたがいるから。
あなたは、私たちのためなら何の迷いもなく「命」を投げ出せる人だろうなと。その信頼と安心感が、どんなことをも乗り越えようと前向きに考えることのできる今の私を育てあげてくれたのだと思うのです。
そして、どうしても辛いときには、あなたのもとへ帰ればいい。
私は間違いなくあなたを選んで生まれてきた。今はそう堂々と言うことができます。
今まで本当にありがとう。おかあさん。

子供へ Y.A(静岡県)

「生きていてくれて、ありがとう。」

筋ジストロフィ症という難病を背負って誕生したあなた。でも人一倍、やさしく明るく成長してくれました。だれからもかわいがられ、家族の中心でいつもみんなをいやしてくれていました。
成長するにつれ、全介助の介護は、体力的にも大変で、つらい事もありました。でもいつも笑顔で「お母さん、ありがとう。」と言ってくれたね。「お母さんだいじょうぶ?」と心配までしてくれて、本当にうれしかったよ。あなたのそのやさしくあたたかい笑顔と言葉で、お母さんはがんばってこられたと思います。
でも平成十七年一月の終わりに、タンをつまらせ、吸引しても、背をたたいても、あっという間に青白い顔になってしまい、救急隊員さんの「心肺停止。」の言葉に、何が何だかわからない状況に、ただ体がガクガクふるえるばかりの母でした。懸命な処置のおかげで、一命はとりとめましたが、停止状態が長かったせいで、低酸素脳症に……。
一ヵ月間生死をさまよいながらも、がんばったね。母は毎夜一人になると、つらくて涙をこらえる事が出きず弱い母でした。
ICUから出られた頃にも、変わりはてたあなたの姿に、とまどいと不安でいっぱいでした。表情も言葉も消えてしまったあなたは、これで良かったのかな……と……。
でも、学校の先生方をはじめ多くの人達にささえられ、あなたが、こんなに多くの人達に愛されていた事をあらためて知り、見えない未来を信じて前へ進んでいこうと思えるようになりました。
何も話してはくれない、でも、そばにいてくれるだけで、たくさんの事を語りかけてくれる。一生懸命生きているそんなあなたから母は生きる力をあたえてもらっています。
どんな宝物より大切な、替わりなんていない大きな存在。介護は大変だけれど、後悔だけはしたくない。
今まで、たくさんの「ありがとう。」をあなたからもらいました。
これからは、母があなたに、たくさんの「ありがとう。」を言いたいと思います。
「お母さんの子供でいてくれて、ありがとう。」
「今日も一日がんばってくれて、ありがとう。」と……。

大好きなおばあちゃんへ A.I(三重県)

大好きなおばあちゃんへ

おばあちゃんは私の憧れであり、尊敬する人です。
野菜作りの天才で、もう米寿も過ぎたのに自転車に乗って颯爽と畑を駆け巡り、畑仕事に精を出すおばあちゃん。
一時期、大病を患って大手術を受けたのに、誰よりも早くその負けん気でリハビリに取り組み、あっという間に元気に戻ってきたおばあちゃん。お医者様も驚いていたね。
とても信心深く、毎日朝起きて太陽の下で動けるだけで幸せ。生かせて貰っているだけで満足というおばあちゃん。
私が心の病を患って、どうして私なんか生きてるんだろう。私なんか居ても何の役にも立たないし、意味ない。消えたいと漏らした時、おばあちゃんが私にくれた言葉。
「お前は優しい子や。誰よりも優しい子や。優しすぎるから、心の病を授かってしもたんや。病気も全て授かりもの。病気に負ける子に、病気は授からへん。お前は乗り越えられる子やから、授かってしもたんや。
自分なんかおっても意味ない、消えたいと言ったね。でも見てごらん。道端の雑草にだって、ちゃんと名前があってこの世に役目を持って生えとるんや。この世に意味もなく生まれてくるものは何一つない。お前はちゃんと此処に居る意味がある。なーんにも心配せんでええ。お前はお前。あるがままでええ。そのまんまでええんやよ。」
その言葉に、本当に涙が出ました。
恐らく一生忘れません。
まだまだ辛い時も沢山あるけど、それでもおばあちゃんのその言葉は、いつも私の心と共にあります。
いつも私のことを気にかけてくれるおばあちゃん。心配してくれるおばあちゃん。
ありがとう。どんなに感謝してもしきれません。
おばあちゃんの孫に生まれてこれて良かった。
本当にありがとう。ありがとう。
心からの「ありがとう」と共に、いつまでも元気で長生きしてね、おばあちゃん!

おやじへ E.T(大阪府)

久しぶりです。

おやじよ、私もとうとうあなたの年令を越えました。あなたが旅立ったのが、確か七十三才の時でしたね。私は今年で七十四才になりました。おかしな気持です。
働くことが楽しかったのか、最後の日まで働きつづけていたあなた。母もそうでした。口ではがみがみといいながらも、裏では細かいことに気遣いをみせていた母。無口なおやじと私が、口やかましい母に追いたてられて、それでも幸せを感じられたのは、おやじのおかげだと思っています。
もしもおやじとあの世で出逢ったら、何といって言葉をかければいいのかわかりません。「ありがとう」もいえずに、ただ、だまったままで「にっ」と笑って終わるでしょう。
おやじよ、あの世にもアルプスはありますか。二人して北アルプスを登ったことが、今も懐かしくてたまりません。七十才のおやじと四十才前の息子が、大きなリュックを背負って、夜行列車でよく出かけたものです。その度に「お父さんを頼むよ」と手を合わせた母の言葉が、いまだに私の背にのっかったままです。その母も九十七才で亡くなりました。
おやじはお母さんに逢えましたか。二人が逢えばどんな会話になるのか、その時は私もそばにいるかもしれませんね。
最近、地球が少しおかしくなったといわれています。そちらはどうですか。日一日とおやじに逢える日が近づいているようで、なんだかわくわくした気分です。もしも逢えることがあれば一番に「おやじ、ありがとう」がいいたい。あなたの背中だけを見て、私もまっすぐに人生を歩いたと思っています。これからもそうです。けれど、ほんまに「ありがとう」がいえるかどうか、「にっ」と笑ってしまうかもわかりません。だから今、「ありがとう」を届けたいと思います。
本当に「ありがとう」
おやじどの
栄一より

優しく、ぶっきらぼうな先生へ A.S(奈良県)

「優しく、ぶっきらぼうな先生へ」

はじめの印象は、“ぶっきらぼうな人だなあ”でした。そして、三年経った今でも“ぶっきらぼうな人”のイメージは変わっていません。おそらく不動でしょう……。でも、それ以上に先生は大切な心をたくさん与えてくださり、ぶっきらぼうな言葉の裏にある優しさやぬくもりも知ることができました。先生は、この町になくてはならない大切な大切な獣医さんです。
ほんの三年間で数えきれない程の恩恵を賜りながら、ちゃんとしたお礼一つ言えず、ずっと心苦しく思っていましたがこの場をかりて言わせていただきます。
「本当に本当にありがとうございました。そして、これからもどうぞよろしくお願いいたします。」
って、ちゃっかり今後の事もお願いしちゃいました。
--今の私にとって獣医さんとは、自分の健康状態を診てくれるお医者様よりずっとずっと大切な人であり宝箱に大事に保管しておきたいくらいです(失礼を)。それ程、私にとってペットの存在は大きく、すでにこの想いは自分自身の事などすっかりこえてしまっています。
はじめて仔猫を拾った日のこと。何の知識もない私はあたふたと平常心を失い牛乳も飲まない、トイレもしない小さ過ぎる仔猫達を両手に抱え、なりふり構わず私は先生に救いを求めました。“死んでしまう”と下手な説明とジェスチャで必死に説明したのを今でもハッキリと覚えています。そして、ミルク缶と哺乳瓶、仔猫達を抱え、ほとんど持ち合わせのなかった私の財布は出た後にも持ち合わせがないなりの同じ重さを支えていました。“動物は保険がきかない”“目が飛び出る程高い”が常識だと思っていたので本当に驚きました。
それ以降も先生に泣きついたドタバタは数知れず……。ぶっきらぼうな先生は気長な先生でもあったんですね。
たくさんの動物を飼うという事は当然遠縁でいたい死とも隣合わせになってきます。本来動物好きの私の心は到底その悲しみに耐え得るものではありませんでしたが、その都度先生に温かい励ましの言葉を頂き何とか乗りこえていくことが出来ました。本当に感謝の言葉もありません。
今では、三年前拾った仔猫達が女王様へと成長し、その後もこりずに拾い続けた猫総勢八匹を日々元気にイジメています。皆逞(たくま)しく育っていくことでしょう。
最後になりましたが、あまりご無理をなさらないよう、いつまでも元気でぶっきらぼうなあったかい先生でいて下さいね。
そして、心から
「ありがとうございました。」
(これからもたくさんお世話になります)

席を譲っていただいたあなたへ K.N(岡山県)

ありがとうの一言も言えないまま、どこのどなたかも分からないままですが、爽やかなあなたの笑顔が今も私の心の中に強く残っています。
友達に話すと、あなたはスーパーマンだそうです。
新幹線の中、指定席に座られていたあなたは、私に「どうぞお座りください。」の言葉と笑顔を残して、混み合っている自由席の中に姿を消してしまわれました。 その日はお盆の帰省ラッシュのため、いつになく混雑していました。私はといえば、急いで新幹線に飛び乗り、自由席まで辿り着くことができず、4号車のあなたの席の前で他の方と一緒に立っていました。
その日はやっと体調が回復し、遅れ遅れになっていた見舞いに行く途中でした。暑さのためか体調を2、3日崩していましたが、もう外出しても大丈夫と判断してのことでした。そのため、見舞いにと選んだ果物も、私が持てる範囲でお店の方に詰めてもらいました。。それがその日の私にとっては予想以上に重く、床に置くことも、棚の上に乗せることもできず、何回も左右の手に持ち替えていました。これでは到底下りる駅まで持ち堪えることはできないと思いました。もう本当に泣きたい気持ちでした。
そんな私にあなたは救いの手を差しのべてくださいました。
一瞬私は訳が分からず、あなたに何も言うこともできませんでした。だって、あなたが座られてたのは指定席ですから。
私は譲っていただいた席に座らせてもらった後になって思いました。次の駅で下りますと一言言えばよかった。ありがとうございます。おかげでとても助かりましたと言えばよかったと思いました。そのときは、ただただ驚いて何も言えませんでした。
それで、せめて私が下車したのがあなたに分かればいいなと思い、下りたホームで新幹線を見送りました。いっぱいに混み合っている自由席の車内から、私が下りたのがお分かりになったでしょうか。多分無理ですよね。
その時は、あなたに対して何もお礼が言えなかったことの残念さと、あなたの笑顔と、温かい思いやりを受けてとても嬉しかったこと、それがいっしょくたになって私の心を満たしました。
もうあれから1年になりますね。覚えておられますか。
きっとあの時の笑顔でさらっと、「そうだったね。」と言われるような気がします。

旦那へ H.S(徳島県)

だんご虫のつぶやき

「パンツ一枚あればいいです。久枝さんを嫁にもらいたいです」。
少し緊張し、はにかんだような顔で今は亡き母に言ってくれたの覚えてる?あれから四十一年経ったんだ。きれい事だけでは済まされない事も多々、あったよね。萎れそうになった私の心に、あなたはいつだって愛と勇気という言葉のシャワーを与え続けてくれたっけ。そのお陰で私は今も自分の歩幅で歩んでいるんだと思う。
そんなあなたが四年前、病に倒れた。心筋梗塞。うれしくないおまけもついていた。腹部大動脈瘤。破裂寸前。身震いがした。どうしようもなく先行き不安で心と身体のバランスが崩れてしまった嵐のような日々。だけど過ぎてしまえば宝物のように愛しい日々。流した涙の数だけ人にも自分にも、優しくて強くなれたと思わない?
37年間経営していた小さな会社を今春、自主解散。答、出すまで随分苦しんだよね。でも今振り返って見て、それが唯一無二の選択だったと思うんだ。だって長い人生のうちではマルとバツだけで決められないって事、いっぱいあるんだもの。
病気も会社解散も世間から見れば確かに負の体験かもしれない。でももういいよ。あなたは充分に頑張ってくれたんだからね。
数多くの奇跡が重なり、巡りめぐって夫婦となり今まで一緒にいられるこのしあわせ。神様はいるんだね。
今まで生きてきた人生より残された年月のほうが少ない現実。だからこそ生命を大切に、丁寧に過ごしたいと思うんだ。
肩凝り性の私を毎日のように今もマッサージしてくれるあなた。料理が苦手な私、甘えん坊の私、すべてを包みこみ認めてくれているあなた。本当にほんとうにありがとう。
そうだ、ひとつだけ注文があるんだけれど言ってもいいかなァ?
私のパンツ干す時、目立たないところに干してくれない。「日光消毒じゃ」と言って殊更目立つところに干すのやめてくれない?お天道様だってきっと迷惑してると思うんだけど。
でもまァいいか。十年前に黄泉の国に旅立った亡き母は言ってるかもね。
「あんたにはもったいない位、良い旦那さんだよ。感謝しなさい」。参りました!

お兄ちゃんへ M.M(福岡県)

「ありがとう」という短いけどとても大切で素敵な言葉。ずっと言えずに兄が亡くなった後、毎日のように後悔していました。
今回このような企画があり、兄への手紙を初めて書きながら涙がとまりませんでした。
私の中のもやもやが、少しほぐれてスッとしました。
信金さんのあったかい企画に感謝です!

「ありがとう。」なんて言えないよ。言ったことないよ。兄妹だもん、照れくさいでしょう。
それに、お兄ちゃん、4歳も年上なのに、服のセンスはまるでない。
音痴なのに私の友達の前で得意げに大熱唱したりするし、何かと理由をつけては学校までバイクや車で迎えに来たりしてさ。
覚えてる?
小学生の頃、私が年上の男の子にからかわれて泣かされたって知って、お兄ちゃんその子を追い掛け回して田んぼに突き落としたでしょう。勝利の顔してたけど、学校で大問題になって、私恥ずかしかったよ。
中学生になったら、男の子からの電話勝手に切ったりしてさ。男の子の友達くらいいるでしょう。連絡事項も伝わらないって、大迷惑だよ。
私が一人暮らしするようになっても、用もないのに毎日のように電話してきたり。『俺の妹かわいかろう。』て、友達に私の写真見せたりするのもやめてよね。
センスなくて、音痴で、大迷惑なお兄ちゃん。心配性で、世話焼きで、母子家庭だったから、お父さん代わりのお兄ちゃん。私の、お兄ちゃん。
小さい頃から病弱で、入退院繰り返したり手術したりする私。「妹は自分が守る」って、思ってたんだってね。学校から帰ってきて、お兄ちゃんいたから寂しくなかったよ。お母さんの帰りが遅い時、よくご飯作ってくれたっけ。少ないバイト代から、こっそりお小遣いくれたりもして。
十代の頃、私が病院の先生から将来子供は産めないって言われて、お兄ちゃんショック受けてたね。
でもね、私もうお母さんだよ。奇跡だって、先生にもすごく驚かれたけど。毎日、幸せだよ。
あの頃、憎まれ口ばかり言って、ごめんなさい。お兄ちゃんが遠くに逝ってしまってから、もう8年が過ぎたんだね。
恥ずかしいなんて言うんじゃなかった。もっと優しくすればよかった。素直になればよかった。ちゃんと言えばよかった……。ずっとずっと心の中にためてきた、言えなかった言葉。今なら、言える。伝えておかなくちゃ。『ありがとう。』強い強い気持ちで、想いをこめて。天国まで届くように、もう一度だけ言うからね。『お兄ちゃん、ありがとう。』
いつも私を守ってくれるたった一人のお兄ちゃん。
本当は、ちょっと自慢だったよ。

先生へ H.I(大分県)

「中津先生、ありがとう」

中津先生、覚えていらっしゃいますか。あれは僕が小学六年生の三学期のことです。
放課後、職員室へ呼ばれた僕は、「あなたはお母さんを助けて新聞配達をしながら、一生懸命に勉強したから卒業式で表彰されることになったよ」と、先生に言われました。「それでね、賞品は何がいい?但し、予算は五百円よ」と聞いて、思わず僕が、「現金ではいかんのですか?」と答えてしまって周りの先生達が一斉に笑い声をあげました。「小学生なんだから現金は駄目よ。文房具か何かで希望するものを考えてごらん」「それでは、運動靴はだめでしょうか?」「運動靴ねぇ、校長先生と相談してみましょう」先生はそう言って立ち上がりました。
卒業式の日、表彰状と大きな白い箱を頂いて家に帰り、母の前で開けて驚きました。真っ白い運動靴と、暖かそうな靴下が七足入っていて、手紙が添えてありました。「この靴下は先生達からの贈り物です」
何度も読んで、手を合わせた母が、「いいかい、ご恩を忘れたらいけないよ」と、僕の眼を見て、涙を浮かべて言い聞かせました。
翌日、その新品の靴下と運動靴を履いて、母と一緒に学校へ行き、職員室の先生達にお礼の言葉を述べましたが、校門を出るとき、先生は微笑みながら僕の肩を叩いて、「あなたには勉強の成績が一番とか二番とか、人と比べることよりも、困った人や弱い人を見過ごせない勇気と優しい心があります。これから中学、高校へ進んでもこの気持ちを大切にして、胸を張って歩いてね」
厳しく、そして優しく励ましの言葉をかけていただきました。学生服の袖で溢れる涙を拭きながら、何度も振り返って手を振ったことが昨日のことのように思い出されます。
中学へ行ってからも卒業するまで僕は新聞配達を続けましたが、あの日の先生の言葉を忘れたことはありませんでした。
そして、高校と大学は母に経済面の負担をかけることなく、働きながら夜間で勉強する道を選びました。夜間高校では僕よりも貧しく苦しい環境の人や身体に障害を持つ学生がいることを知り、色々な面で助け合いながら卒業する事ができました。大学も自分に対する挑戦として働きながら通学しました。幸いなことに職場の人達が大変協力的だったので、仕事と学校の忙しい暮らしも何一つ不自由なく卒業まで続けることができました。
以来、何度か先生のお宅へ伺ったり、お話もしましたがいつも先生はにこにこ微笑んで、僕の近況報告を聞いては「良かったね」と言われました。あれから四十年以上過ぎ去りました。偉い人やお金持ちにはなれませんでしたが、先生に言われた通り、困った人や弱い人を見たら手を差し伸べ、障害を持つ人達の学校や施設に出来る限りの協力をしてきたお陰で、現役を退いてからも多くの友や知人達が元気な顔を見せてくれます。
中津先生、本当に有難うございました。

お義母さんへ M.K(沖縄県)

拝啓
風鈴の音も、今年の暑さを和らげるのにはあまり役に立たないようです。沖縄よりも飯塚の方が暑いようですが、夏ばてなどされていませんか?
先日は大変お世話になり、ありがとうございました。おかげで、楽しい時間を過ごすことができました。
「せっかく飯塚まで来るのなら、一緒にごはんを食べましょう。」と言っていただいてからお邪魔するまでの2週間は、ちょっとした大騒ぎでした。「何着ていけばいいかな?」「何話せばいいの?」「お土産は?」「コマのこと、ちゃんと名前で“徳明さん”って呼んだほうがいい?」などなど。「アホなこと考えなくていいから。普通にしてればいいんだよ。」とコマは言っていたけど、初めて彼氏のご両親にお会いするのですから、緊張するし、猫をかぶろうともするのです。
何に……体重までばれているだもんな。「ほら、いろいろ知ってる方が親近感わくと思って」ってコマは言っていたけれど、普通、母親に彼女の体重ばらしますかねぇ。本当にもう。まぁ、おかげで親近感は持っていただいていたようで、私を“嫁”としてではなく“私”として受け入れていただけて良かったです。
お家にお邪魔して分かったことがありました。コマが人を大事にするのは、息子として、兄として、過ごした時間が幸福だったからだということ、大事にされた記憶が、相手を大事にする気持ちに変わっていったのですね。大事な長男を東京に連れて行ってしまうことに文句ひとつ言わず、「あの子が幸せならそれでいいのよ。」と笑ってくれたこと、一生忘れません。私もコマと同じように大事にしていただいているのですね。だから、「私達は老人ホームにでも入ればいいし。」という言葉も一生忘れません。そんな事言わせてしまって、ごめんなさい。あの後、寂しくて悲しくて、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
あのね、お義母さん、いつになるかは分からないけど、皆で過ごせる日がくれば良いねって、コマと話をしていることを伝えておきます。忘れないでね。いつか、私がお義母さんの立場になる時に、そばにいて欲しいなぁと思っているのです。きっと「どうしよう。息子の彼女なんか会いたくない。」とか「“お義母さん”とか言われるのイヤ。」とか大騒ぎすると思うので、「普通に迎えてあげなさい。」って私を諭してね。そうしたら、きっとお義母さんに初めて会った日のことを思い出して、きちんと母親の役目をこなし、息子の彼女に『ありがとう』といってもらえるはず。って、ずいぶん先の話ですけどね。それが、最近の私の夢なのです。そこに行き着くまでの長い時間を大事に大事に過ごしていこうと思います。
まだまだ厳しい暑さが続きそうです。体調をくずされませんようお元気でお過ごしください。
涼しくなったら、こちらにも遊びに来てくださいね。それでは。
敬具

受賞作品のご紹介ありがとう大賞/しんきん賞ふれあい賞まちのえがお賞 Vol.1まちのえがお賞 Vol.2