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受賞作品のご紹介ありがとう大賞/しんきん賞ふれあい賞まちのえがお賞 Vol.1まちのえがお賞 Vol.2
まちのえがお賞 Vol.1
手紙をくれた君へ T.T(青森県)

べんきょう

畔上純也(あぜがみじゅんや)
ぼくはじんるいが
めつぼうしないよう
せんそうがなくなる
けんきゅうしゃになるんだ
そのためにいっしょうけんめい
べんきょうする
まにあうといいな

きっと間に合うと信じます。
がんばってください。
(川崎 洋)
H15年6月25日(水)
読売新聞 子供の詩

純也くんお手紙ありがとうございます。夏休みになってたくさんの人に返事を書いていることと思います。暑いのに大変でしょう。ごくろうさまです。
さて私も人類が滅亡しないために、戦争がなくなるために研究しました。
一つの答えが出ました。特別に純也くんに教えます。
答えは「ありがとうを言う」です。
その理由は人類は一人ひとりの集まりだからです。
ひとりですが実はお父さんとお母さんがこの世にいなければ純也くんもこの世にはいなかったのです。
お父さんとお母さんもまた、それぞれのお父さんとお母さんがいなければ同じことです。
こうして何億人の最後の生命が純也くんなのです。まずお父さんとお母さんにありがとうと言いましょう。
そして、おじいさん、おばあさんにも言いましょう。
お盆になってお墓参りにいったら、ずっと昔のおじいさん、おばあさんにもありがとうと言いましょう。
その時いつも約束しましょう。
「皆から伝わった自分の生命を大事にします」と。
人類のうち純也くんという一人から、自分を大事にして、ありがとうと言える人になりましょう。
お父さん、お母さんだけではありません。純也くんが生きているときに会うものすべてに対してです。
先生、友達、空、空気、水、自然、家、ノート、くつ、シャツ、ご飯、人からの親切、そして夏休みの宿題。
お手伝いをたのまれたときにも言いましょう。
ぼくを役立たせてくれてありがとうと。
このように世界中の人がありがとうと言える人になったら、感謝と喜びにあふれる世の中になったら、必ず戦争がなくなります。
純也くんがこの答えを使ってうまくいかないときにはまた手紙をください。同じ研究者として一緒に考えよう。もっとすばらしい答えが待っているはずです。
さいごに一つ、多くの人からがんばってとはげまされていると思います。じつは、私は「がんばる」「がんばれ」という言葉は好きではないのです。
そこで「がんばる」事よりもっとすごい言葉をプレゼントします。
どんな言葉かというとそれは「なまけない」です。
がんばらなくても、なまけないことです。
そして、「けいぞく」
そう、続けることです。
さあ、人類が(純也くんが)めつぼうしないためにもなまけないで自分のできることをつづけよう。

長い手紙をよんでくれてありがとう。
とってもすてきな絵葉書ありがとう。
いっしょうけんめいかいてくれました。はがきを読んだ妻が涙を流して感激していました。感動をありがとう。
これまで知らなかった野沢温泉村に行きたいものです。その日を夢見ています。希望をありがとう。

*詩に対して感動の手紙を書いたところ返事が来ました。それに対する感謝と励ましの手紙です。テーマは「ありがとう」でした。

奥さんへ K.O(岩手県)

拝啓 せ子様

結婚して24年、早いものですネ。あっという間に過ぎたように思います。あれほどあった髪の毛も随分と薄くなりました。(苦笑) いつも一番近くにいて、あなたの存在が当たり前になってしまい、感謝の気持ちを忘れてしまっている自分がいました。
中学2年に同じクラスとなりました、そして同級会での再会、24歳チョット前に結婚しましたがまるで違う環境に戸惑ったことでしょう、辛かったことでしょう。何も手助けできなかったことを許して下さい。
その後、健太、好実、雄太3人の子供たちに恵まれました。健太の切迫流産の危機、サッカーでの活躍、好実の練習不足を微塵も感じさせない堂々と演奏したピアノ発表会、気合入りまくりで中総体前に髪を切った事、そして雄太、保育園でブンブンスクーターを楽しそうに漕いでいる姿などなど……つい昨日のことのように思い出されます。
3人とも脇道にそれることなく、真っ直ぐに育ちましたよね。(ホント良かった)
家庭では楽しく、明るく、元気いっぱいのよき母そして強き妻?として、また職場では頼りがいのあるベテラン看護師として、夜勤ありの厳しい労働条件の中一生懸命働く姿にただただ敬服します。毎日ホントご苦労様です!
私が以前勤務していた職場を退職し、独立しようか迷っていた時背中を後押しして夢が実現できました。また、仕事で大失敗をしでかした時には、「大丈夫、必ず挽回できるよ!」と励ましてもくれました。その一言が今でも忘れられません。
夢多き船出でしたが、自営業は年中無休、そして収入は不安定、でも今まで踏ん張れたのは家族のお陰、それもあなたの支えがあったから15年も続けることが出来ました。
健太もようやく就職が決まり、かなりキツイみたいだけど秘めたガッツがあるので大丈夫。好実も病院に勤めて2年目、介護福祉士の資格を取得してバリバリ働いてますよね。よっぽど疲れるのか、時間があれば寝てばかり。(笑)でも彼氏ができれば、少しは家事を手伝うかもしれません、楽しみですねえ。そして、あなたそっくりの雄太、私が出来なかった(挫折した)高校野球を必死にやっている姿を見ていると、ある意味オヤジの夢を代わりに実現してくれていると感じます。牛乳をガンガン飲んで、一回りも二回りも大きくなって欲しいです。みちのくプロレスも待っていますんで。(苦笑)野球のルールを覚えて一緒に楽しみましょう。
また今度心配(迷惑)をかけますね。でも、家族を守っていくため、新たな一歩を踏み出すつもりです。とにかく不安定な収入を何とかしたい気持ちでいっぱいです。また応援宜しくお願いします。
これからは、親孝行はもちろんのこと、奥さん孝行もイッパイしますヨ、要ご期待です。
今まで本当にありがとうございました。体に気を付けてお互い長生きしましょう!
そして、いつまでも若々しく!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
敬具

平成19年7月13日 一也より

娘へ T.N(秋田県)

日々のご活躍、ご苦労様です。娘へ“ありがとう”の手紙を書きました。
心にあっても、口には出せないでおりました。
手紙を書いてほっとしています。
ありがとうございました。
おからだを大切に益々ご活躍ください。
早々
係の皆様へ

娘より毎日かかる電話にて
生きよと思う吾れの悲しさ
もう、八年になったね。
毎日の電話、ほんとうにありがとう。
あなた達がいなかったら、今、かあさんはどうしておったでしょうね。
とうさんに旅立たれ、あんなになるとは、今でも、“どうして”と、思うばかりです。
かあさんは“自分がしっかりしなければ”と、心を強く頑張っていたつもりでした。
でも“死にたい。”“先に死んだ方が幸せだ”との想いが心を締め、外に出ることは勿論、人と会うことも話すことも出来なくなり、気がついたら、痩せて別人のようになっていました。電話の先のあなたにも、死を口にし、愚痴を並べ、嫌味を言い、あなたを困らせ、ほんとうに嫌なかあさんだったでしょう。
電話の後で“なぜ、あんなことを”と、自分を責め後悔するのですが、次の日は又……
ごめんなさいね。つらかったでしょう。
それでも何事もなかったように、また電話をくれましたね。心で謝り感謝してました。
そんな頃でしたね。
「かあさん。かあさんのつらい気持ちはわかるよ。でも、私達もつらいんだよ。かあさんは、あんなによく看病したでしょう。とうさんも喜んでいたよ。私達は思うように看病も出来ないまま別れたんだよ。博紀だって、どんなにつらいか。わかってあげて……。」と。
涙があふれ、自分の愚かさを恥じました。
話してくれて、ほんとうにありがとう。
四国八十八ケ寺巡拝に行かせてくれたね。心が安らぎ、素直に自分を見つめることが出来ました。生きる望みを蘇らせてくれました。
それからは、朝に写経をして心を癒し、五木寛之氏の“歓びノート”を実践し、“今日は何を話せるかな”と、一日一日を目的を持って過ごすようになりましたよ。
電話での話も変わっていったでしょう。
殊に、毎晩「おやすみなさい。」と交わせる喜びは、明日へとつながりましたよ。
友達は「毎日、電話をくれるなんて、とても出来ることでないよ。」と、感心してます。
かあさんは、一番、幸せですね。
もう、八十才。
おだやかな心で迎えられ、感謝してます。
毎日の写経も二千枚をこえました。電話はそれ以上ですね。電話は私の命の綱でした。その綱を手繰り続けてくれた、あなたに、頭が下がります。ほんとうに、ありがとう。
只々“ありがとう”の一言しかありません。
これからは、からだを大事にし、想い出の此の家で、あなたからの電話を一日でも長く受けられるよう、長生きします。
あなたも、からだを大切にね。
電話を続けられたのも、お義母様、峰彰さんのお陰ですよ。感謝の心を忘れないでね。
お盆に会えるのを楽しみにしてますよ。

真紀子へ

おかんへ N.T(茨城県)

おかんへ

俺は、おかんの嫌いなところが、いっぱいあります。俺の友達に会った時に、おせっかいをしたり、俺がいるところで納豆を食ったり、お風呂の中に髪の毛が浮かんでいたり、味噌汁が薄かったり、勉強しないと、すぐキレて、傘をふりまわしたり、そういうところが、俺は大嫌いです。でもそれ以上に感謝していることは、いっぱいあります。
毎日朝ごはんや、夜ごはん作ってくれたり服とか洗濯してくれたり、塾に送り迎いしてくれたり、おこずかいくれたり、家計の為に毎日働いてくれたり、休みの日は、どこか連れてってくれたり、立派なお父さんを見つけてくれたり、そして、俺を生んでくれて等々に感謝しています。ここからは、タメグチでいいかな。おかんもさあ、いつかはこの世からいなくなっちゃうんだよね。しょうがねえよ。
人っていつかは死んじゃうんだよね。
俺は生きることが一番の親孝行だから、死にたいとか、自殺したいとかは、一度も考えたことはねえなあ。
一生懸命、今をちゃんと生きてんよ。
だから俺は、おかんにも長生きしてほしいと思ってる。よぼよぼのばあちゃんになって、ボケて、俺が分からなくなっても、一人でめしが食えなくなっても、少しでも長く生きてほしいと思ってる。まじで、父ちゃんもいねえしさ。俺はおかんより早くは死なない。
死ぬつもりもないし、死んでなんかやらない。
生きてさ、おかんが冷たくなってもよ、おかんがちゃんと天国に行けるように、見とどけんだからよ。まあ、あと何年先になるか分かんねえけど。
おかん今まで、ありがとう。
俺が死んでも俺のこと忘れないでね。って俺死ぬか!こういう、しめっぽいのは苦手だわ。
まあ、これからもよろしく。お味噌汁は、濃いめがいいな。おこずかいもいっぱい、ほしいな。
2007.3.12 卒業式にて
卒業、友達との別れ、テレビ・新聞での親子姉弟の殺人事件、ニュースでの学校のいじめ、子供の自殺、父の死、思春期の複雑な心の心境の中、はじめて親に送った手紙です。
親は反抗期の子供の上辺だけの判断ができず子供の内面を知った時の感動、義務教育を終え巣立っていく子供から、卒業式にもらったはじめての手紙です。
戦争中には子供から親に最後の手紙を送った文章を目にすることがあり感動します。
現在、子供から親に手紙を出すと言う習慣機会がなく、子供の心の中を知ることができません。手紙を通して、思春期の子供の心境気持ちを知ることができ、親子の絆も深まり、親子お互いにもっとだいじに、大切に考えると思います。
自分勝手の世の中にみえますがお互いの心境を知れば、親も子供もどんなに大切に思っているか知ることにより、他人友達を大切に思い相手を思いやる心が芽生えると思います。
今の世の中、大切な時期・思春期はもっと子供と向き合い話し合いが必要だと思います。
巣立って行く、親子の複雑な心境を書いた一枚の手紙です。

あなたへ S.K(栃木県)

葉桜のトンネルだったけど

隣県の有名な桜のトンネルが見たくて早朝出かけたのに、すっかり葉桜だった六年前の出来事です。あなたは覚えているでしょうか。「何よ、これ~」上ずった私の声に、「だから言っただろう、もう葉桜だって」 そう言いながら笑っているあなたに、私は心の中で腹が立ちました。一週間早ければ桜は満開だったはず……そう思ったからです。
同じ頃私の町でも桜まつりを開催中、あなたは商工会イベントの責任者でした。だから期間中は地元を離れられなかったのです。それをわかっていながらも、いつもの私なら嫌味の一つぐらいは言ったことでしょう。「あなたのせいで念願の桜のトンネルを見損なった……せっかく来たのに……」強い口調になっていたかもしれません。
でもその日は、いつもと違っていたのです。自分でも驚くくらい気持ちが穏やかでした。きっとそれは、あなたのさりげない優しさを私が素直に感じていたからだと思います。
インターネットですでに葉桜になっているとわかっているのに、それでも行かなければ納得できないと言い張った私。そんな我儘な妻の思いを、呆れながらもかなえようとしてくれたあなたの心は充分伝わっていました。少し腹が立ったのは、現実に目にした桜のトンネルにショックだったのだと思います。カーナビ付の車を息子に借り、おやつを食べながら、おしゃべりをしながらのドライブ、それは私にとってとても楽しい時間でした。
結婚して三十三年、知り合った中学時代から数えるともう四十年もの付き合いです。思えばその間、私はずっとあなたに好き勝手なことを言っていたような気がします。同級生だからという甘え、気の緩みが私の中にあるのかもしれません。顔を合わせると憎まれ口を利いていた学生時代、そして今も、つまらないことに文句を言ってしまうのです。でも嫌いということは全くなく、むしろ生活の全てに私はあなたに頼りきっています。
時々あなたは私に誇らしげに言いますね。「俺以外の人とはやっていけないだろうな」悔しいけど、その通りです。
日課のような妻の文句も元気な証だと笑い飛ばしてしまう、あなたの器の大きさを私は知っています。私の嫌み、愚痴はそんなあなたへの甘え、喧嘩だって実は楽しんでいます。でもこんな思いがあることも知って下さい。あなたに愚痴をこぼして聞いてもらうだけで私の気持ちが楽になり、救われることもたくさんありました。頑張る勇気、パワーもたくさんもらっています。やはり私には、どんな時もあなたの支えが必要なようです。
葉桜のトンネルだったけど、あの日幸せを実感させてくれたあの葉桜は私の大切な思い出となりました。ただ、やっぱり本心は桜のトンネルが見たかったのです。だから最後にこの言葉を伝えておこうと思います。
「あの時はありがとう また連れてってね!!」

カナダの君へ Y.S(群馬県)

ヴィンスへ

今日、浜川へ行ったよ。トレーニングしながら君の事を思い出していた。君が帰国してから、この作業が孤独なものとなり5年経った。相変わらず週1回だけれど僕は欠かさず通っている。午後一番で仕事があるから、限られた時間黙々と取り組むんだ。以前は汗を流した後、一緒に飯を食うのが楽しみだった。ヴィンスが離婚を覚悟してカナダに帰って以来、自己挑戦の意味合いのトレーニングは僕自身の生活のリズムの中に組み込まれている。

先月、Tさんから久しぶりに電話があり、ヴィンスの近況を話したよ。「今、貨物列車に乗るための資格を取るために学校へ通っている」とね。黙ってて欲しかったかな?でも彼女は、一心に聞いていたよ。学校嫌いの君が、一念発起して行動を起こしたことに感心していた。「ヴィンスから連絡がないから、私も連絡とっていないのよ。でも今はこれでいいかなと思っている」と話してくれた。正式に離婚届をだしたのは、去年ヴィンスが日本から戻ってからと聞いた。あの時、やっぱり最後に結論を出したんだね。Tさんも頑張っているよ。この3月で、学校も終わり正看護師になれるそうだ。「不安定な生活はもう嫌で、看護婦は食いっぱぐれがないかなと思って」と笑っていた。二人とも、偉いよ。真面目に生きていると思う。二人の心の傷が癒され、はやく新生活の基盤ができることを祈っているよ。

去年の秋はありがとう。カナディアンロッキーでの十日間は僕の一生の宝だ。ロッキーの雄大さは決して忘れられないし、君と共有した時間は特別なものとなった。あの時言えなかった事を今書いてみるよ。「君は潔かった。英語教師の中には大金を払う日本人をかもにする人が少なくない。口数が少ない君は、愛想の良い欧米人より受けが悪かったかもしれない。でも生徒に対して不器用でも誠実な対応をしていた事を僕は知っている。離婚後も、英語が金になる日本に居座ることはできたのに、潔く去ったことに敬意を表する。」
君のご両親と話せたことも有意義だった。親としての姿勢を学んだよ。「我が子に愛情と信頼を持ち続け、本人に任せること」は、KやHに対して僕も肝に銘じなくてはいけない。「今の仕事は将来性があるとは思えないけど、ヴィンスの今後を見守っている」とのお父さんの言葉には感服した。だから君が学校へ通い始めて、どんなに喜んでいることだろう。僕も今後は、自己鍛錬以上に家族との絆を強くし、英語を教え続ける事で一層地域に根を張ることを決心している。ヴィンス、君の友情をありがとう。
ミノルより

あなたへ R.S(埼玉県)

あなたへ

間もなく厳しい夏を迎えますが、お元気ですか。今夜は、ここのお祭りでした。それは、沢山の提灯をつけた見事な山車なのですが、山車の中にはお囃子の笛や太鼓を打ち鳴らす人がいて、揃いの法被を着た男衆が、ぞろりぞろりと引いていくのです。駅の目抜き通りを中心に、何台もの山車が行き交い賑わいをみせています。夜店の屋台の電球と赤い色をした提灯が、お伽噺の世界へと誘っていきます。
あれから二十年が経ちました。
まるで何事もなかったかのように、お祭りに心向けられる日が来たのですね。あの頃とは比較にならないほど、時がゆるやかに流れていきます。貧しいながらも、心の豊かさと幸せを感じています。さまざまなことがありましたが、過ぎ去ってみれば全てに感謝の気持ちでいっぱいです。あなたたち三人が同意してくれたとは言え、やはり、重い責任を感じていました。私の至らなさのために、あなたたちを巻き添えにしてしまった、という心苦しさと申し訳なさとで、胸が張り裂けそうでした。
「お母さんの気持ちが足りなくて、あなたたちに迷惑をかけて本当にごめんなさい」そう言った私に、長男であるあなたの言葉が重なりました。「お母さん、謝ることなんかないよ。お母さんは、人の何倍も生きてきたじゃないか。何時も一生懸命やってきたじゃないか。それは俺たち子供たちが知っている。人から何を言われても負けるな。明日から、いいえ、今からそんな気持ちは捨てて、堂々として生きればいいんだ」
住み慣れた街を後にし、夢中で前だけを見て生きてきました。知人に会うことさえ極力、恐れ、何時も足早に歩いていました。仕事、仕事と自分に言い聞かせ、肩肘張っていたのでしょう。あの時のあなたの励ましに、どれほど慰められたか分かりません。切なくなるほど、あなたから勇気をもらったのです。それまでは、私自身を叱咤激励するための、もう一人の私がいましたが、この時ほど、私は一人ではないのだ、と強く意識したことはありませんでした。そして、このように未熟な私を信じ、「お母さん」と呼んでくれるあなたたちが、何物にも換えがたい大きな喜びになっているのです。
知っていますか。日本語の中で最も美しい言葉、心に響く「お母さん」、そう呼んでくれる人のいることに、溢れるほどの幸せを感じています。伝えたいのです。あなたたちにもうひとつの素敵な言葉、「ありがとう」を感謝と共に贈ります。

夫へ T.W(神奈川県)

夫へ送る「ありがとう」

いつもいつも遅くまで仕事大変なのに、愚痴も言わず笑顔で私を支えてくれて、本当にありがとう。
今妊娠7か月。もうすぐ2人の初めての赤ちゃんが産まれるね。結婚してすぐに妊娠したから、2人でゆっくり旅行とかは出来なかったけれど、家族が増えるのはとてもうれしいよね。
私が妊娠初期、つわりで苦しんでいた時、背中さすってくれたりしてとっても心配してくれたね。お腹が痛くなっただけで不安になったり、あなたの帰りが遅い時一人寂しく家で待っている私に、まめに電話やメールで連絡くれたね。本当にうれしかったよ。いつもわがままばかり言っているけど、嫌な顔ひとつせず逆に私に「わがまま言っていいんだよ。」って真面目な顔で言うもんだから、驚いちゃったよ。
安定期過ぎてからは、早産の危険もあり安静にしておかなくちゃいけなくて、あなたには心配かけどうしだね。だけど十分に台所に立てない私を気遣って、一緒に家事を手伝ってくれて、一緒に作った料理は本当においしいよ。朝もいつもより少しだけ早く起きて、仕事行く前に洗濯物を干し、お風呂とトイレ掃除までしていってくれるよね。私がつい「ごめんね。」と言うとあなたは、「ごめんねは嫌だな。ありがとうがいいな。」って言うんだよね。いつしか、私たちお互い生活の中で「ありがとう」を言う事が増えたよね。
もうすぐ出産準備の為実家へ帰るから、2~3か月間離れて生活する事になるね。まだまだ新婚なのにこの7か月間はこのお腹の赤ちゃんのおかげで2人のきずなが深まった様に思うな。
「ありがとう」を言う相手がまた1人増える。この子の成長とともに、私達も成長していこうね。いつもいつも、私とこの子の為に本当にありがとう。そして、これからも2人でしっかりと支え合っていこうね。

同級生へ K.S(長野県)

元気ですか?

同じ市内に住んでいるであろうと思いますが、まったく会いませんね。同級会もやっているのか、いないのか……。
新学期が始まる時、先生が決まって目標をひとりずつ発表させていましたが、覚えていますか?
皆んなだいたい、勉強を何時間やろうとか、自分の平均値を何点上げよう、部活を頑張ろう、なんてのが多かったんです。そんな中「一日一回 ありがとうを言う」という目標をあげた人がいました。
この言葉は、私にとって、とても衝撃的でした。
「ありがとう」って、ありがとうでしょ。たった五文字のよく聞く言葉、よく使う言葉。でも丁度、中学生の私達は多感な時期。その五文字が、うまく言えない事が多かったんです。
何てすごい事を言う人だろう……と思いました。人と変わった目標を立てるのもすごいけれど、それが「一日一回 ありがとうを言う」だなんて……。自分がその時どんな目標を発表したのかは、さっぱり覚えていません。たぶん在り来たりの目標を苦し紛れに言ったのでしょう。
進学し、卒業し、社会に出て、年を重ねるごとにこの言葉の重みを、深さを感じています。誰かに助けられたら、ありがとう。何かを頂いたら、ありがとう。ごはんを作ってもらって、ありがとう。
小さい頃から、ずっとずっと毎日の生活の中に、ありがとうは限りなくあります。でも、その「ありがとう」を忘れてしまう人間はいっぱいいます。とても悲しいです。
「一日一回は、ありがとうを言う」と教えてあげたくなる時があります。
私も、もしあの時、その言葉を聞かずにいれば、ありがとうの大切さを気付かずに生きて来たと思います。
そうです。これは、あなたの目標です。
ありがとうを言わない日が一日もない事に感謝できる。
“ありがとう”を教えてくれて、ありがとう。
ありがとう。

お父さんへ T.K(福井県)

お父さんへ

お父さん、あなたが亡くなって、早一年余りがたちました。あなたはもう「千の風」になって、この大空を吹きわたっているのでしょうか。
五十数年共に暮らした私たち夫婦は、お互いが空気のようなものでした。あなたが病の床についた時から別れの日も、ある程度覚悟はしておりました。でも私は駄目でした。あなたの存在があまりにも大きかったのです。あの優しい笑顔も、温かい言葉も二度と戻ってこないのです。私は声をあげて泣きました。
お父さん、私は本当に幸せでした。あなたも知っている通り、私の子供時代は少し不幸でした。四歳の時に実母を亡くし、養女に出された私が再び生家に戻ってきたのは、九歳の時でした。少女期、不本意な帰郷となった私は、父が迎えていた母にどうしても「お母さん」とは呼べませんでした。そんな私に母が教えた最初の諺が「尾を振る犬に棒は振れない」でした。私はシッポを振らない犬、厳しい母のムチは容赦なく飛んできたのです。
私は益々かたくなに心を閉ざし、屈折した娘になりました。
そして、二十二歳の時に、あなたと結婚したのです。昭和二十五年、まだ敗戦の傷跡が残る貧しい時代でした。無い無いづくしの新婚生活でしたが本当に幸せでした。母の顔色ばかり見ていた私は、その時初めて心の底から「青空」を見たという気がしました。そんな私にあなたは「物事をひがんで取ってはいけない」と諭してくれました。何人に対しても穏やかな心で接し、悪意に解釈しないあなたを見ているうちに、かたくなに閉ざした心も次第にほぐれていきました。「北風と太陽」です。衣を脱いだ旅人は私でした。
あなたは戸数十数軒という小さな漁村で、両親の愛を一身に受けて育ちました。人は幼少時に愛情豊かに育てられると、優しさが心の中で醸成されるのだと聞きました。
きっと貧しいながらも温かい環境が、あなたの人柄を作りあげたのでしょう。
夫として、父親として、また職場の上司として、誰からも信頼されていたあなたは、私の誇りでもありました。
高齢による心臓疾患で、入退院を繰り返しながら三年に及ぶ病床中も、あなたは絶えず私をいたわってくれました。でも最期の入院となった頃からは、衰弱も著しく笑顔も消えていきました。意識のうすれていく中で「お父さん、私わかる?」と聞くと「お母さん、一番大切な人」と答えてくれました。そして、あなたはその二日後に亡くなったのです。
私は今、あなたが残した最期の言葉を心の糧に、また宝物としてこれからの余生を、明るく生きていこうと思っています。
お父さん、私を素直な人間に、そしてなによりの宝「子供」と「愛の言葉」を残してくれて、本当にありがとうございました。

受賞作品のご紹介ありがとう大賞/しんきん賞ふれあい賞まちのえがお賞 Vol.1まちのえがお賞 Vol.2