「農家のお母さんへ」
いつも「ゆうちゃんに、これ食べさせて」と野菜を持ってきて下さる農家のお母さんへ、感謝をこめて……
前略、麦の緑が目に鮮やかに焼き付く季節となってきました。いつも美味しいジャガイモやアスパラを沢山ありがとうございます。
今年は、例年になく暑い日が続き、炎天下での作業は、身にこたえることと思います。ここに越して来るまでは、農業が大変だと知ってはいても、北海道は機械でやるから重労働ではないと思っていたのです。確かに、機械でやってはいますが、人間の手が、そこにはどんなに必要か知らなかったのです。
朝は日の出とともに、作業服に地下足袋、手袋、そして農作業用の帽子をかぶり、いざ畑へ出陣。雨の日も風の日も動くトラクター。畑に肥料をやり、水を撒き、草を取り、汗にまみれたその顔は、土ぼこりにまみれ真っ黒になっています。
それでも、少しでも美味しい野菜をお客様に届けたいと、毎日まいにち腰を屈め収穫した結果が、このアスパラです。そして、ジャガイモです。「ジャガイモは芽が出た位が美味しいのさ」とか、「アスパラは朝収穫しても、夕方にはまた伸びているから、黙って持っていってくれると助かるわ」などと話してくれる、その言葉の中に、野菜に対する愛情が『ほっこり』伝わってきます。そう、ふかしたジャガイモのように……
そんな、貴重な大地の恵みを「ゆうちゃんに食べさせて」と、障害のある息子のために、わざわざ家まで持って来て頂き本当に感謝です。
私が「いつもありがとうございます。」とお礼を言うと、畑から帰ってきたばかりの、土のついた野良着のままで、にっこり微笑んで「なーんもさ、食べさせてやりたいから持ってきただけだ~」と言うその微笑みは、モナリザよりも美しいと思います。
そして「捨てるのはもったいないから、皆で食べて……」と施設のメンバーや職員にも届けて頂き、もう10年です。
当然、農家なので山のようにある野菜のほんの一部だと思います。しかし、その野菜は愛情がいっぱい込められた、農家のお母さんが手塩にかけた子供達です。
突然、畑の中に障害者の施設が出来て、戸惑っていたと思います。農家の方々は、野菜をお裾分けすることで、私たちに近づこうと努力して下さった、その気遣いに感謝です。
お父さん達は、広い敷地の雪投げや紙を燃す簡単な焼却炉を作ってくれ、つかず離れずの関係を続けて下さり、「ありがとうございます。」そして、これからも宜しくお願いいたします。
今年は、数年間できなかったジンギスカンパーティーを施設のメンバーやご近所の方々と盛大に開きましょう。
例年になく暑いようです、どうぞお身体ご自愛くださいませ。
草々
天国の姉さん、ありがとう。
姉さん、あなたが天国へ旅立って四か月たちましたよ。いまのくらしは、いかがですか。千の風になっていますか。それとも、私たちを見守ってくれる星になっていますか。
入院中、短歌の話もしてくれましたね。難しくて、私は無理だと思っていました。しかし、興味が出てきたので作りました。遅くなりましたが、姉さんへ報告します。
『来年も桜見たいと言う姉に告げ得ぬ病名裡(うち)に仕舞いぬ』
姉さんの病気が、食道癌であることは言えませんでした。入院してまもなく、食道閉鎖の施術を受けました。胃に穴を開け、チューブで栄養剤注入点滴でした。
『苦しみを終え安けき姉の腕点滴針の黒きさし跡』
一年六か月にわたる、食道癌との壮絶な戦いでした。
『新しき姉の位牌へ新樹光揺れ動くよう笑顔の姿』
人間は死ぬと、戒名が新しい名前となります。新しい位牌を見ていたら、姉さんのやさしい笑顔を見ましたよ。
『亡き姉の形見となりし春蘭もあるじ偲ぶや可憐に咲きて』
姉さんが一番好きだった春蘭は、姉さんが亡くなった一週間後に咲きました。形見と思って、これから育てていきます。
『姉あゆむ四十九日や虹の橋渡りてゆけよ極楽浄土』
姉さんは誰にでも親切で、思いやりがありました。葬儀の日は、たくさんの友人や関係者が参列してくれました。みんな姉さんの死を悼み、泣いてくれましたよ。
『在りし日の姉の笑顔を思い出し供養をなせり積れる恩に』
私が困ったとき、悩んだとき一緒になって考えてくれました。明るい出来事のときは、大声で笑ってくれましたね。十二歳年上の姉さんは、あるときは母親のように頼もしく思ったことがありました。
姉さんの人生は、波瀾万丈の生涯でした。二十歳で熱愛結婚、二十四歳で夫との死別。三歳の息子を、女手一つで立派に育てました。再婚もせず、衣料品販売で生計を立て頑張りました。母親の面倒も、よくみてくれました。母の最後の三年間は、寝たきりとなったため介護も苦労の連続でした。私は遠く離れて生活していたため、姉一人へ重い責任を押し付けました。
『祭壇の姉の遺影が語るよう「強く生きてね私の分も」』
七十六歳で旅立った姉、もっと長生きしたかったことでしょう。私は健康に気をつけ、姉の分も生きます。百歳まで長生きし、姉へ恩返しをしたいです。
姉さん、いままでお世話になりありがとう。姉さん、安らかに眠ってください。
我が師へ
「先生、また今日もお休みですか?」「実は…転勤したんだ。」
六月も終わろうとしていたあの日、大好きな塾の先生の転勤を知った。入塾当初からずっとお世話になっていただけに、ショックだった。ありがとうも、さよならも言えぬまま会えなくなってしまった先生に、届くかどうかは分からないけれど手紙を書きたい。
先生へ。
転勤のこと、どうして教えてくれなかったんですか。今度物理を教えてくれるって約束していたのに。今でも、授業を受けに塾に行くと、「元気か?学校どう?」と言いながら迎えてくれる先生がいるような気がします。
忙しさにかまけて宿題の予習をしないで行ったり、「全然分からない。」なんて言ったこともあったのに、その度に何も言わずに解説のプリントをそっと机に入れておいてくれたり、何気なく相談にのってくれる、そんな先生の存在が兄のように温かかったです。
最後に授業を受けた日には、たしか中間テストの結果を渡しました。「良い点数の方から見たい?悪い点数の方から見たい?」と聞くと「悪い方!!」なんていつもと変わらない先生、いつもと変わらない授業でした。きっと心配させないように秘密にしていたのかな。
「もっと勉強しなさい。そのうち伸びるから。」「努力すれば成功するとは限らない。でも、成功する人は努力している。」先生の言葉は、いつもいろんな意味で力になってくれています。ただ怒るんじゃなくて、ほんの小さな努力も認めてくれて、それでいて進むべき道をはっきりと示してくれる、力強い、温かい言葉です。もう、100点をとっても、難しい問題が解けてもほめてくれて、そんな優しい言葉をかけてくれる先生はいないんですね。高校生になって一度も満点の解答用紙を手渡してあげられなかったことが、今になってすごく残念です。
今まできちんとありがとうを伝えたことはなかったけれど、この1年と数か月で勉強の大切さ、問題が解けた時の楽しさ、自分に克つことの苦しさ、いろいろな気持ちを数学と一緒に学べたと思っています。そしてそれは、今後の人生の様々な場面で、必ず私を支えて助けてくれるだろうなとも思っています。
2年後に大学の合格証書のコピーを送れたらいいな。いや、絶対送ります。それまではきっと晴れの日ばかりではなくて、雨の日も風の日もあるでしょうけれど。そのために今から苦手だけれど数学も勉強します。次に先生と会っても恥ずかしくないくらい努力するよ。Sクラス全員で頑張っていくから応援していてくれたら嬉しいです。お互い頑張ろうね。先生もいろいろ大変だろうけれど、ご飯はちゃんと食べてください!健康第一ですから。これからも私たちの良き師でいてください。ありがとう。また会いましょう。
目の難病を宣告され、落ち込んでいたあなた。
ほとんど眠れない日々が続き、日に日にやつれていくあなた。
私はそんな苦しみもがくあなたをみながら、
先の見えない日々を思い暗澹としていた。
その頃、毎晩あなたに本を読んであげるのが私の日課になっていた。
眠れないあなたに少しでも、本を読んであげ気持ちを楽にさせてあげようと。
しかしベッドに入って本を読み始めると、一日の疲れがどっと出てついウトウトしてしまう私。
ある日のこと、私の読む声があまりにしどろもどろな為、あなたがキレ
布団をはねのけすごい形相で起き上がった。
「もう読まなくていい」本をたたきつけ、壁をこぶしで何度もなぐった。
そのころの私たちは精神的にピークに来ていたと思う。
私はもうあなたを支えられない、そんな弱気になっていた。
散歩にいきましょう。ある日、私はあなたを誘った。
江戸川沿いに続く散歩コース。
二人言葉もなく並んで歩く。
コスモスの花が風にそよそよときれいだった。
「おーっ、両サイドの花きれいだなぁ」
あなたの言葉に私はちょっとひるむ。なんて返事していいのか、
あなたは重度の視覚障害。
視野がせまくて両サイドまでは見えないはず。
「あなた、お花が咲いているのは右端だけよ。」
「えっ、そうかぁ?」
「俺はまた、左にいるお前が花に見えたよ。」
あなたの精一杯のジョーク。
苦しいのは貴方のほうなのに、支えてもらいたいのはあなたの方なのに。
私は涙がでるほどうれしかった。
たとえあなたが失明したとしても、これからの日々あなたと明るく
歩いていける。そう思った。
ありがとう、あなた。あの日のことを、決して忘れない。
「ありがとうの手紙」募集の文字を目にした時、五十年前の思いが吹きあげられる様に甦って参りました。「人間不信になる事を僕は一番恐れます」と書かれた葉書がある施設にいた私の所に届きました。未だ20才位の私はあまり深い意味も理解しないままでしたが、そのうち宮沢賢治の文体は美しい流れですよ。とか「ビルマの竪琴」はヒューマニズムに溢れています。「自然と人生」は人としての成長に役立つでせう。いろいろの解説をつけて送って下さいました。そのおかげで読書好きになり、人を信じる深さ、大きさを知り、いろんな生き方を学び、何とか倖せな日々を重ねて、七十四才の今に至っております。本当にありがとうございました。ゝゝゝ何百回書いても足りない恩義を感じ忘れた事はありませんのに、何のお礼の言葉さえ伝えぬままに今になりました。
逆境ゆえの貧しさも惨めさもあり、ウロウロしているうちに転勤なされました。改めてお礼申し上げたいです。ありがとうございました。
青春の記と言う竹山道雄さんの本は「上下」共知人の大学生に読んで頂きたく差し上げました。私は今の若い人達に精一っぱい言いたいと思います。どうか人間不信にならないで下さいと、逆境や困難に負けないで、その後に必ずある喜びと感謝を見つけられる心を養って下さいと、人は皆美しい心もたくさん持っていると私は信じています。あなた様に教えられたその深さをしみじみ感じられる年令になりました。私の一生の支えであり宝ものである思いでを、ありがとうございました。
追伸
昭和三十年頃、N地裁の判事をしておられましたS.N様です。転勤のためお住居もわかりませんが、ご存命であれば80才位になられているだろうと思います。
ありがとうの手紙は届かぬ迄も少し胸がラクになった様な気が致します。
「ありがとう」キャンペーンをして下されました事、改めて感謝申し上げます。
◎「ありがとう」この一言を忘れない◎(妻へ)
来年の春に結婚五十周年(金婚式)を迎える二人だね。若くて輝いて私より七才年下の乙女だった君と結婚して五十年近くも一緒に暮らして来たんだね。お互いに年を取るのも当然だよ。私もやがて八十才に手が届く年令となってしまった。最近の君を見てると「こんな老女にしたのは私の所為(せい)かなあ」と振り返ることがある。結婚時の私は母と二人だけの生活で、あの口うるさい母に必死に尽くし大事に扱ってくれて、その間に娘と倅の二人の出生と健(すこ)やかに育ててくれて今では孫も四人となり時折り我が家に遊びに来るのを楽しみにしている我々だが、随分君にも種々苦労を掛けたよね。更に会社を停年退職して自社を創立し社長に治まったけれど、最終的には会社を悪企み重役共に乗っ取られ多額の負債のために自宅を手離す始末となり又々、大変な苦労を掛けてしまい。更に悪い事に私自身が、その苦痛から脱するために飲酒に溺れ毎晩ネオン街に入りびたり状態となり或る日の午後に意識不明となり現在の自宅で遂に倒れた儘となり驚いた君が救急車を呼び市内の総合病院に運び込まれ治療を受けたが院長先生に「アルコール依存症」と宣告され専門医院に入院手続きされて、そのまま専門病院に入院し約二年近くの治療を受けたが、その入院中に幾度となく娘と一緒に見舞いに来てくれて落ち込んでいる私を元気づけてくれた。お陰で院長の退院指示で約二年近い入院生活にピリオドを打つことが出来て自宅に戻って来た。以来一口も飲酒しない断酒生活が続いて現在は平和な明るい家庭生活の毎日だが、私の飲酒時期や入院中の事などで心痛続きだった君の心情を思う時、君に心から詫びとお礼を言いたい。現在の年老いた君の姿を見るたびに私の心は痛む。然し君は不満を漏らすこともなく毎日を優しく接してくれて私の健康を気にし乍ら食事バランスを考えてくれて栄養食を一心に手作りしてくれる。この辺で私が素直に君に対して「ありがとう」と言えれば良いのだが駄目なんだな。でも心から感謝しているので私の態度で察してくれてると思うが私は今でも若い時と同様に君を愛しているし、これからも君は私より七才若いのだから私より元気で生き続けて欲しい。私は本当に「君と共に生きて来て良かった。心からありがとうを言わせてもらう。」こんな良妻を選んだ自分を少しは誉(ほ)めても良いかな?否、それは素直でないな、やはり君の方が数倍も私より人間性が優(すぐ)れていて素晴らしい人だよ。最後にもう一度感謝を込めて、「ありがとう我が妻よ」 長生きして下さい。
二〇〇七年八月十二日(和男より)
先生、さようなら
和田先生、先生はとうとう昨日遠い彼の国に旅立たれてしまいました。一昨日の午後、たまたまバスに乗って市の案内板で貴方の死を知り、雷に打たれたように驚いたのです。先生がご病気になられたこと、全然知りませんでした。本当にすみませんでした。
昨日、とりあえずはご葬儀の席に馳せ参じました。そして最後まで臨席させていただきお見送りまでさせていただくことが出来ました。最後のお別れのとき、一輪の花を先生のおそばに入れさせていただいて、お顔を拝ませていただき心からお礼の言葉をのべさせていただきました。気がついていただいていたでしょうか?
先生には本当にお世話になりました。いくらお礼を申し上げても足りるということはありません。本当にお世話になりました。
先生は私の亡父のお友達でした。中学の時、大の仲良しだったと亡父に聞いたことがあります。子供の頃、私はよく亡父に連れられて先生のお家に遊びに行かせていただきました。小さかった私はよく先生のおひざの上に乗り甘えたいだけ甘えさせていただいた記憶があります。大柄な先生のおひざは私の亡父と又、違った感じで子供心に私は本当に先生に甘えていたのだと思います。おまけにお子さまのなかった先生のおひざは、それこそ他に持ち主のないお城のように温かい居心地の良いものでした。幼い頃の私は虚弱児でそれこそ他に友達はなく暗い寂しい子供でした。
小学校教師でいらした先生は、そんな私をとても可愛がって下さいました。
小学校に入ってからも先生は、そんな私をとても可愛がって下さり気を配って下さいました。虚弱児だった私もそれで安心して学校に通うことが出来ました。小学校を卒業し、先生とはお別れしましたが私は徐々に丈夫になり大きく娘らしく成長致しました。そんな私が再び先生にお会いしたのは父が亡くなった時でした。冬の或る日、突然倒れた私の父はそのまま亡くなってしまいました。三十才を過ぎたばかりの私はただ呆然として、何をどうしていいのか考えることすら出来ませんでした。先生はそんな時、お忙しいお体であったにもかかわらず、ずっと私の家に居て下さっていろいろと細かい気を配り続けて下さいました。おかげで父は安心して旅立つことが出来たと私は今も感謝しています。それから十数年後、あまりお丈夫でなかった先生の奥さまが亡くなられました。その時四十代初めだった私は離婚していたのですが、本気で先生のお嫁さんになって先生のお世話をして差し上げたいと思いました。でもこれは誰方にも話すことは出来ませんでした。そしてとうとう先生は旅立ってしまわれました。
先生、本当にお世話になりました。どれだけお礼を申し上げても足りないと思います。
大好きな先生、どうぞ安らかにおやすみ下さい。そしていつの日か、私がそちらに行った時、お嫁さんにして下さい。きっとですよ。
あの時のおばあさんへ
覚えていますか?忘れてますよね。
ほら、僕が入院した初日に、ロビーでうろうろしてた時です。おばあさん、僕に声をかけてくれて、いろんなことを教えてくれましたね。病院の設備のこと、手術のこと、お孫さんのこと、それから自分の病気のこと。
正直、入院と関係ない話を始めた時は、少し困りました。いろいろと疲れていたし、病室でゆっくりしていたかったから。
言い方は良くないと思っていますが、半分仕方なく聞いていました。
結局、三十分程話を聞いてました。最後の方はほとんど聞いていなかったし、少しいやそうな顔をしてしまっていたかもしれません。
最後に渡してくれた御守りを持って、「変な人だったなぁ」とか思って病室に戻りました。
おばあさんの病気は、よくわからない病気で、手術すれば治るとのことでしたよね?
いや、確かに「治る」と聞きました。
今はそっちで病気も治って元気に暮らしているでしょうか?
おばあさんは僕の退院する二日前に亡くなりましたね。手術を受ける四日前でしたね。
覚えてますよ。最期に聞いたおばあさんの言葉、今でもハッキリと。
僕の手術が終わり、身体が自由に動かせなかった時、おばあさんは僕の所に来てくれて「手術終わったの?良かったじゃない。じゃあこの御守りをあげる。」と言って、僕の手に「学業御守」を渡してくれましたね。本当に嬉しかったです。
その時はなにか照れくさくて、少し笑い返すことしかできませんでした。
だけどおばあさんは、それっきり僕とは話せなくなりましたね。
あの時言えなかった気持ちをこの手紙に込めて、おばあさんに言いたいと思います。
ありがとうございます。
便利なトイレを作ってくれた人へ
ほくは、小学五年生の渡部祐志といいます。ぼくは、夏休みに、病院に入院して、しゅじゅつをしました。しゅじゅつをした後、おなかの横がいたくて、トイレに行けませんでした。少しよくなって歩けるようになってトイレに行きました。トイレに入ろうとしたらお母さんが「こっちのトイレにせんけん。」と教えてくれました。
それは、車いすの人のトイレで、トイレの戸を引かなくてもいいように、戸の横に手のマークがあって、そこに手を近づけると、戸が自動的に「ウィーン」とあくようになっていました。初めてきた時は、ぼくはやり方がわからなかったので、お母さんが戸を開けてくれました。二回目からは、自分で開けることができました。そこでぼくは手のほかにかたや足や頭や手にかぶせたタオルを近づけてみたりといろいろためしてみました。そのたびにぼくは「この方法でも開いた。」とお母さんに、結果を話してあげました。
そんなことをしているうちに、来るのがめんどくさいなあと思っていた気持ちがどこかにいって、ぎゃくにはやく行きたいなあという気持ちが強くなってきました。だからおしりをあらってくれるスイッチや、かんそうしてくれるスイッチをおして、なるべく長くトイレに居られるようにしました。なんといっても、おしりをあらったりかわかしたりしてもらうと、気持ちがよくなりました。ぼくは楽しいし気持ちをよくしてくれるこのトイレは、すごいなと思いました。家のトイレもこんな便利で気持ちのいいトイレになったらいいなと思いました。こしのいたいじいちゃんの家にもつけてあげたいなと思いました。スーパーや公共のし設の見学をした時に、車いすのマークの付いたトイレを見たけれど、手を近づけて開ける機能はありませんでした。開ける機能が付いたトイレをもっとふやしてほしいと思いました。
ぼくは入院してみて初めてトイレに行くこともなかなか大変だなと分かりました。楽に使えるよう作ってくれていて、ありがとうございました。
「拝啓」でよろしいでしょうか。亡くなられた方への手紙の書き出しでまず迷いました。浅学をお笑い下さい。
先日、所用で上京した際に、小母さんが昨年亡くなったと人づてに聞きました。享年九十歳を超えていたとか。大往生と言えるのでしょうが、四十数年も前に小母さんの許を離れた私にとってはいつまでも小母さん。そう呼ぶことを許して下さい。
私が沖縄から大学進学で上京したときの下宿屋の小母さん。コロコロと太って、今でいうと「渡る世間--」の女優、泉ピン子さんみたいな雰囲気を持っておられましたね。小母さんから最初に教わったことは沖縄にはなかった納豆の食べ方でした。それから電車の乗り降りまで。まるで異邦人のような私に手取り足取り教えていただきましたが、もっとも忘れられない思い出として残っているのは言葉の件でした。
あれはそう、食堂で朝ご飯を小母さんがよそってくれているときでした。部屋のカーテンのことで私がどこで買えばいいのか訊ねると、傍らにいた下宿の娘がクスッと笑って「カーテンだって」、私の平板な沖縄訛りをなぞったのです。私はうなだれました。そこで小母さんの出番です。
小母さんは厳しい目で娘を叱った後、私に向かって言いました。
「謝花さん、お国訛りを恥じてはいけませんよ。東京にはいろんな人がいます。この下宿にも東北の人、鹿児島の人、佐渡の人がいてお国訛りで話しています。負けずに誇りを持って付き合いなさい」
そのとき、私は東北や鹿児島と沖縄とでは事情が違うと思いました。昭和三十五年当時で、沖縄はまだ米軍の支配下にあったのです。先輩らからの話によると「沖縄では英語を使っているのか」と訊かれたともいう。沖縄から出てきた者にとって言葉の問題は最大の難題でありました。
だけど小母さん。私は「誇りを持って付き合いなさい」という小母さんの言葉に突き動かされたんですよ。言葉に障害を感じていては東京では暮らしていけないと。以来、その気持ちが私の東京生活でのバックボーンとなりました。
沖縄に戻ってから武蔵境の下宿に顔を出したのは一度だけでしたね。ご無沙汰を重ねて幾年月、無礼の万々です。しかし、私も六十の坂を越えました。年をとると、近間のことより遠い若いころの出来事の方がより鮮やかに思い出されるもののようです。小母さん、ありがとうございました。